小説はキャラ

 

 さびしさを連れてここまで秋の雨

ただいま白井喬二の『富士に立つ影』を読んでいますが、
ときどき声を出して笑うので、
家人が気持ち悪がっています。
登場人物たちの個性がどれも際立っており、
なかでも熊木公太郎(くまき・きみたろう)
の天衣無縫、無手勝流な性格は並大抵でなく、
たとえば、
城を築くための審議に流派を代表して
日光に赴いたその日、
土地の外れに住んでいるやくざモノに
手篭めにされようとしていた遊女から、
(この遊女、監禁され四日も何も食べていなかった)
「たすけてください!」とせがまれ、
「そうか」と言って助け出すと、
また遊女が、
「腹が減って歩けません」と言うから、
「そうか」と言って、背中に負ぶってしまう。
これから公儀の務めに就こうとしている侍が、
遊女を背中におんぶし、帯で結わえて、
すたこらさっさと走り出したから、たまらない。
やくざの親分、怒った怒った!
「てめー。このやろー。ふてえ野郎だ」
公太郎、遊女をおんぶしながら、
片手でチャンチャンバラバラ。
これが強い強い。
親分も子分どもも、あっという間に蹴散らし、
日光の町に入った。町中大騒ぎ。
それもそのはず、
立派な侍が、昼日中、
有名な遊女をおんぶして
町を堂々と歩いていくのだから…。
公太郎、遊女の住む家に彼女を送り届け、
「では、さようなら」
何事もなかったかのように、
指定されていた自分の宿に向かった。
く~。かっこいい!
というわけで、
『富士に立つ影』面白いです。
富士見書房の時代小説文庫で七冊。
絶版のようですが、
アマゾンのマーケットプレイスで買えるようです。

 秋雨や祖母の笑顔のなつかしき

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貧しいと貧乏

 

 鬼ごっこ鬼の稲刈りかくれんぼ

「貧しい」と「貧乏」ではどっちが貧しいか、
を考えてみました。
以前、『金持ち父さん貧乏父さん』という本が出て、
わたしは読んでいませんが、
よく見ましたから、
けっこう売れたのではないでしょうか。
それはともかく、
「貧乏」というのは具体的にカネがないことで、
経済的なニュアンスが濃い。
それに対して「貧しい」は、
経済的な意味でももちろん使いますが、
それだけに限りません。
おカネを持っていても、
たとえば、
知識が貧しい、身なりが貧しい、心が貧しい、
ってことはあるでしょうから。
知識が貧乏、身なりが貧乏、心が貧乏とはふつう言いません。
「貧しい」には含みがありそうだけど、
「貧乏」には含みがなく、
相当貧乏な感じがするね、
なんてことを昨日社内で話していました。

 秋風を待って二月過ぎにけり

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秋バージョン

 

 馬鹿天気八月四十五日なり

このホームページのトップにある
「春風フォトストーリー by 橋本照嵩」が、
昨日から秋バージョンに変りました。
今回も、日本のみならず、
韓国、スペインの写真が入っています。
もう少し暑い日が続くようですが、
季節はとっくに秋。
どうぞお楽しみください。
それから、
業界紙『新文化』に、
インタビュー記事が掲載(9月9日)されました。
pdfファイルでどうぞ。
これです。
ここには載せていませんが、
他の紙面を見ると、
どうしても電子書籍ネタが多いようです。
取材してくださった冨田さん、
お疲れ様でした。
そして、
ありがとうございました。

 秋風や昼の陽射しを忘れをり

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ふるさと

 

 秋の日のコーヒー豆をガリガリと

小椋桂さんの歌に「野ざらしの駐車場」があります。
懐かしいはずのふるさとが
どうしようもなく変ってしまって、
もどるすべはないものか、
変ってしまったのは、
ふるさとでなく、
むしろ、
わたしの方ではないのか、
というふうにもその歌詞は受け取れます。
ふるさとは、
故郷と書いたり、
古里とも書きますが、
わたしにとってはまた、
小椋さんの歌と同様、
「経る里」でもあります。
いま、
拙著『父のふるさと 秋田往来』の校正をしながら、
第三章にある「夢」を読み直し、
この章がこの本の臍だと感じました。
臍は、考えてみれば
母と直につながっていたことの痕跡に過ぎず、
ふだん無聊にまかせ臍のゴマをとり、
その臭いに辛うじて母との紐帯を切なく、
懐かしく、
また愛しく思い出す程度の
あってもなくてもいいようなものですが、
ふるさとの哀しく懐かしい思い出は、
夢の中でこそそのリアリティーを発揮できる
ような気がしてきました。
「夢」を独立した章にすべきではないか、
と提案してくれた
編集長ナイ2君に感謝しています。

 一夜明けブイヤベースの秋となり

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 きりぎりす通り過ぎたらきりぎりす

九月も半ばになろうとしているのに、
涼というのは季節外れですが、
今年の天気がそもそも季節外れなのですから
仕方がありません。
ほんと、
やっと涼しくなりました。
昼食を終え、
野毛から紅葉坂方面へ上っていたら、
歩道にきりぎりすが跳び出してきました。
お。
杜の緑を一身に集めたような、
それはそれはきれいな色です。
お菓子のようで、食べたいくらいです。
見とれていたら、
坂の下から近づいてくる人がいましたから、
そのままそこにいるのがなんとなくはばかられて、
きりぎりす君に別れを告げ歩き出しましたが、
十歩も歩かぬうちに、
またきりぎりすがいました。
やはり、
眼の覚めるような緑色をしています。

 きりぎりす色を集めて光りをり

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電子書籍がやってくる

 

 長靴を履いて台風避けにけり

やってくるんですねー。
電子書籍を読む機械は、キンドルやiPadだけでなく、
これからもつぎつぎ出てくるようです。
そういうことについての本が
世の中にたくさん出ていて、
わたしも何冊か読みましたが、
どれも刺激的で面白い。
時代が大きく変わる気配を感じます。
本屋も出版社も取次も著者も編集者も、
変わらざるを得ないでしょう。
安閑としているわけにはいきません。
日本の出版界のアキレス腱だったいわゆる再販制度も、
いずれぶっ壊れるんじゃないでしょうか。
わたしとしては、
つくられた紙の本が電子化されることについては、
こまごま考えなければいけない問題は多々あるにしても、
それほど大きなこととは思っていません。
むしろ、
最初から電子書籍化する、
されることを念頭に置いたテキストのほうが気になります。
それが一般的になる時代の著者と編集者、
出版社のあり方が問われてくるのでしょうが、
それがまだ見えません。
見えなくて当然かなとも思います。
まだ、そういう時代になっていませんから。
でもいずれ、そう遠くない時期に、
そういう時代がやってくるでしょう。
そのときに一番問題になるのは、
テキストを見、
読む場合のテキストの評価ではないかと思っています。
結論を急ぐようですが、
本=電子書籍が一般的になったあかつきに、
このテキストは、例えば賞に値する、
あるいは、
パッケージングして残しておくべきだとみなされたテキストが
紙の本にする資格を得る、
みたいなことになるのではないか、
そんな気がします。
でも、分かりません。

 台風一過烏呆けて鳴いてをり

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文は人

 

 秋風を抱いて後ろへ流しけり

このサイトのトップページ右上に、
「きょうのツバメ」のコーナーがあります。
ちょっとメタボなツバメが若葉をくわえて飛んでいます。
社員が持ち回りで書いているのですが、
短い文章でも、
人それぞれに特徴があります。
読んでくださっている方は、
どんな感想をお持ちでしょうか。
わたしは、人となりを知っているだけに、
なるほどとすぐに合点の行くこともあれば、
へ~、こういう文章を書くんだぁと、
嬉しくなることもあります。
ちょっとした言葉の使い方で、
その人らしさが現れるのは、
面白いけれど、
こわいことだなぁと思います。

 青々と空を映して秋の風

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