沈黙の言葉

 

 ハダハダに塩ふり炙る師走かな

言葉でないもの、言葉をもたないものを言葉にする。
冗舌はばかる世にあって、
詩の言葉がいま、ここにあらわしてきたものは、
沈黙するものの密かな言葉でした。
詩の言葉は、言葉に翻訳された沈黙です。
ともすれば人間はじぶんを
世界の主人公のように思いなしがちですが、
人間は言葉のなかに生まれるにすぎず、
言葉は言葉よりもおおきな沈黙のなかにあるにすぎません。

上の言葉は、長田弘さんの『本という不思議』(みすず書房)
にでてくる言葉です。
そのあとにつづく、長田さんが紹介している
ブラジルの詩人ジョアオン・カブラル・ジ・メロ・ネトの
「石にまなぶ」という詩(ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)も
素敵なのですが、引用が長くなりますので、
興味のある方は、長田さんの本を読んでみてください。
長田さんがいうように、
本はたしかに、沈黙を媒介にした友人です。
たとえば、北川太一さんの『高村光太郎を語る』を読むと、
高村さんがいかに沈黙を翻訳した言葉を
詩にしてくれたかがわかります。
北川さんは、『高村光太郎全集』を編集なさった方ですが、
わたしが『新井奥邃著作集』を編集しているとき、
大事な仕事ですから、がんばって完結してくださいと、
ありがたい励ましの言葉を何度もいただきました。
どんなに勇気づけられたことでしょう。
『新井奥邃著作集』に入っている語録は、
北川さんがことあるごとに古書店で見つけた
奥邃の「語録」本体を見せていただくことがなければ、
収録がかなわなかったものです。
奥邃もまた沈黙を言葉に翻訳してくれた人でした。
第二次世界大戦後、高村光太郎が岩手から東京に戻る直前に、
「私の愛読書」というアンケートに回答したそうです。
二十歳以前、二十代、三十代、四十代、現在、とあって、
最後の項目が「各年代を通じての座右の書」。
そこには、聖書、仏典、ロダンがあげられています。
高村光太郎が聖書を愛読していたということも、
北川さんの本で知りました。

 キーボードかじかむ指の言葉かな

091208_2115~0001