おカネのこと

 

 椋鳥ら電線会議開きをり

お小遣いでなく、働いておカネをもらったのは、
小学校の四年生ぐらいではなかったかと思います。
お盆の前に沼に行き、蓮の葉を採ってきて、
それを売り歩きました。一枚いくらで売ったのか、
もう忘れてしまいました。
全部で二、三百円ぐらいになったのじゃなかったでしょうか。
それから飛んで、大学一年生の夏休み、
叔父のいる工場で働きました。
八時間働いて二千八百円。ということは時給三百五十円!
薄給です。
働いておカネをもらうことは大変だなあと思いました。
家庭教師は、いいおカネになったし、
喜ばれもしましたが、
あまり働いているという感じがしませんでした。
いま現在の働きは、その中間ぐらいの感じで、
働いている気がしないことも間々あります。
原稿を一枚一枚ていねいにチェックし
頁をめくっているときなどは、働いている感じがあります。
いくつになったら、おカネのことが
リアリティーをもって感じられるのでしょうか。
それとも、おカネは信用で成り立っているものですから、
鍋や火や水や鰯や太陽のようにはリアリティーが感じられなくて
当然なのか。
子どもの描く絵におカネの絵がないのは、
千円札、百円玉、十円玉はあっても、
おカネそのものというのは、
この世に存在しないからではないでしょうか。
それはともかく、
あるとき父が、子どもにおカネのことで
苦労かけまいかけまいと思って育ててきたが、
それは、どうやらそのとおりになったけれど、
そのせいで、逆におカネのありがたみが分からない人間になってしまったようだ…
と、ぽつりと言ったことがありました。

 きちきちと椋鳥電気帯びてあり

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