腹にのる!?

 

 毒抜けて後は野となれポンと月

小学校に入るかその前か、
それぐらいの頃ではなかったかと思います。
家をでて坂を下り、井内の新太郎床屋によく行きました。
祖父のトモジイが床屋の道具を一式持っていて、
トモジイにやってもらうことが多かったけれど、
半々くらいの回数で、新太郎さんに髪を切ってもらいました。
気の利いた予約制などというものはまだなく、
大人も子どももブラッとやってきては、
おしゃべりしたり、新聞を読んだり、
しゃちこばって順番が来るのを待ったり、
めいめいの時間を楽しんでいたものです。
やっとわたしの番が来て、大きな立派な椅子に座りました。
新太郎さんが髪の毛をちょきちょき切っていきます。
鏡の中のわたしは、
切りそろえられた髪の毛の下で目の玉がきろきろしています。
馬の革にちゃんちゃんちゃんと当てた後の剃刀がうなじに当たります。
こそばゆいけれど、なんと気持ちがいいのでしょう。
新太郎さんは、次の客の話に合わせながら、
それでも手を止めることはありません。
わたしは鏡の中のその人の顔をながめました。
見たことはあるけれど、どこのだれだかわかりません。
新太郎さんにいろいろ話しかけていて、
ふと黙ったと思ったら、
「おもしろぐにゃあどぎは、かあちゃんの腹にのればええべ…」
と言いました。
新太郎さんは、うんともすんとも答えません。
どうして「かあちゃんの腹にのる」のだろう。
しかも面白くないときに?
新太郎さんに尋ねるわけにもいかず、
足りない頭でいろいろ想像しているうちに、
「はい。でぎました!」
わたしは慌てて椅子から跳び下りました。
後年、平凡社の『アラビアンナイト』(東洋文庫)を読んでいたとき、
らくだ乗りごっこという言葉が出てきて、
文脈からそれとわかりましたが、
小学校に上がるかどうかの年頃では、
「それ」の意味を理解することは出来ませんでした。
新太郎さんは昨年亡くなり、床屋を継ぐ人はいません。

 歌丸の歯茎慄はす枯野かな

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歌丸さん

 

 満月を網戸放ちて見し夕べ

今日は歌丸さん。
今度の「春風目録新聞」に、落語家の歌丸さんが登場します。
ご多用の合間をぬって、
インタビューに答えてくださいました。
武家屋敷がお話をうかがってきました。
わたしは、武家屋敷がまとめた記事を読んだのですが、
歌丸さんのお人柄が偲ばれるとてもいい原稿です。
仏教で上品、中品、下品という言葉があるようですが、
歌丸さんは上品の人なのでしょう。
短い時間のインタビューですし、
とくべつなエピソードを開陳してるわけではないのですが、
なにを語っても(原稿を読んでいると、
ピンクの歯茎をだしてニッと笑う歌丸さんの顔が浮かんできます)
武家屋敷も上手にまとめてくれました。
スッと胸に入ってきて、気持ちよくなります。
機会を見つけ、歌丸さんの高座を聴きに行こうと思います。

 満月や空のコルクを抜きにけり

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長田弘さん

 

 猫じゃらし我が身一寸法師かな

詩人の長田弘さんの本を、わたしは学生の頃から読んできました。
『ねこに未来はない』『読書百遍』『私の二十世紀書店』
『記憶のつくり方』『感受性の領分』等々。
出版社を始めて、いろいろな方に原稿をお願いし、
いただいてきたのに、
どうして長田さんにお願いしなかったのか、
自分でもなんだか不思議です。
お願いする時期がやっと来たということかもしれません…。
『読書百遍』と『私の二十世紀書店』を、
わたしは三度読みました。
二度読んだ本は他にもありますが、
三度読んだ本は、この二冊だけです。
(絵本は除きます)
『私の二十世紀書店』の巻末に、
本のなかで取り上げている書のリストがあり、
それに○印をつけ、宿題をこなすように読んでいきました。
懐かしい思い出です。一冊一冊読むことで、
二十世紀という、
それまで宙に浮いてでもいるように感じられた言葉が、
急に親しいものとなり、いろんなひとが呼吸して
歴史をつくっているのだと感じられたものです。
長田さんの本を読むと、こころがやわらかくなった気がし、
ああ、この感じで本を読みたいなあと思うのです。
そうして、書棚にあるまだ読んでいない本とか、
一度読んだけど、もう一度読んでみようかなと思う本を手に取り、
椅子に腰掛けてゆっくり頁をめくります。
そうすると、前と同じ文字を読んでいるはずなのに、
前はそんなことなかったのに、いま初めて読むように、
ことばが胸に沁みてきます。
長田さんの本が効いたのでしょう。
今度の春風社目録新聞のテーマが「紙の本」に決まり、
長田さんにぜひこのテーマで詩を書いていただきたいと思い、
手紙を書きました。
昨日、お原稿をいただきました。
「ベルリンの本のない図書館」がそのタイトルです。
正直、体が震えました。
今日もまだ、長田さんの詩の余韻に浸っています。

 鎌倉へ鉄道草の靡きけり

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おカネのこと

 

 椋鳥ら電線会議開きをり

お小遣いでなく、働いておカネをもらったのは、
小学校の四年生ぐらいではなかったかと思います。
お盆の前に沼に行き、蓮の葉を採ってきて、
それを売り歩きました。一枚いくらで売ったのか、
もう忘れてしまいました。
全部で二、三百円ぐらいになったのじゃなかったでしょうか。
それから飛んで、大学一年生の夏休み、
叔父のいる工場で働きました。
八時間働いて二千八百円。ということは時給三百五十円!
薄給です。
働いておカネをもらうことは大変だなあと思いました。
家庭教師は、いいおカネになったし、
喜ばれもしましたが、
あまり働いているという感じがしませんでした。
いま現在の働きは、その中間ぐらいの感じで、
働いている気がしないことも間々あります。
原稿を一枚一枚ていねいにチェックし
頁をめくっているときなどは、働いている感じがあります。
いくつになったら、おカネのことが
リアリティーをもって感じられるのでしょうか。
それとも、おカネは信用で成り立っているものですから、
鍋や火や水や鰯や太陽のようにはリアリティーが感じられなくて
当然なのか。
子どもの描く絵におカネの絵がないのは、
千円札、百円玉、十円玉はあっても、
おカネそのものというのは、
この世に存在しないからではないでしょうか。
それはともかく、
あるとき父が、子どもにおカネのことで
苦労かけまいかけまいと思って育ててきたが、
それは、どうやらそのとおりになったけれど、
そのせいで、逆におカネのありがたみが分からない人間になってしまったようだ…
と、ぽつりと言ったことがありました。

 きちきちと椋鳥電気帯びてあり

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公園のなかの公園

 

 椋鳥をほうと叫びて払ひけり

休日の午後、近所のひかりちゃんが貸してくれた
『公園のメアリーポピンズ』を読んでいて、
ふと顔を上げたら、
今日はまだ一歩も外へ出ていないことに気づき、
なんだかもったいない気がして外へ出てみることにしました。
坂を下りてなじみのお店に立ち寄り、
小一時間ほど、お茶をいただいて帰ってきました。
見上げると、公園の上の電線に椋鳥が群れを成して止まっています。
ほうと叫ぶと、見えない糸でつながっているドミノのように、
また、南京玉すだれのように、
なめらかな幾何学模様を作り出します。
しばらく見とれてしまいました。
『公園のメアリーポピンズ』は残り
「ハロウィーン」の章だけになってしまいました。

 椋鳥や飛び立ち南京玉すだれ

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