越川透

 

 新米を炊きて華やぐ御殿山

越川透という人は、変わった名前ではありませんから、
日本国中、探せば、
かなりいらっしゃるのではないかと想像されますが、
わたしは実在の越川透さんを知りません。
それなら、なぜ越川透なのかといえば、夢に出てきたからです。
夢の中で、その人は越川透でした。
正確にはわかりませんが、
八十歳には達していないと思われます。
足腰がしっかりしていて、矍鑠(かくしゃく)たるものです。
夢の中の春風社は、横浜ではなく、秋田でもなく、
しかし風光明媚な田園地帯に社屋があり、
社を訪ねて来てくれた越川さんは、
別れ際何度も「人間は、わがままでなくちゃいかん」と言いました。
専務イシバシが越川さんをバス停まで送っていきました。
わたしは社屋から、歩く二人の姿を眺めていたのですが、
越川さんは立ち止まり、
山に向かって俳句を詠みました。
向こうには山、二人とわたしの間には芒が風に揺れています。
越川さんが詠んだ俳句が、空から、ちゃららららーんと大文字で
空中に印字されました。こういうことが夢では簡単に出来ます。
越川さんは俳人だったのかと納得しました。
わたしはすぐ近くにある本屋に行きました。
本屋に入ると、手塚治虫の本がずらーっと並んでいます。
手塚さんの本以外にも、
手塚さんの絵をあしらった表紙がたくさんあります。
どうしてなんだろうと、不思議に思いました。
それはともかく、
わたしは越川透の本を探しましたが、なかなか見つかりません。
若い男の店員に尋ねると、
今はあまり読まれなくなりましたからねと言いながら、
数冊棚から出してくれました。
手に取ってページをめくると、
ノドの糸がほつれてばらばらになりそうです。
相当古いのでしょう。『源氏物語評釈』と書かれてありました。
わたしは店員に、
越川さんの俳句が載っている本はありませんかと尋ねると、
ああ、それならと別の棚へ行き、一冊の本を出してくれました。
お礼を言うと、店員は「いいえ」と言って、
その場を離れていきました。
わたしはその本を開いてみました。
『源氏物語評釈』と同じように古い本でしたが、
越川さんの髪がふさふさした写真も載っていました。
有名な作家が縁側に引かれた布団に横になっており、
若い越川さんと談笑しています。
その手の写真が何枚も載っていました。
横になった老人は上半身裸、ずいぶん痩せています。
越川さんは若いときに、
こういう人たちとの付き合いがあったのだなと思いました。
「人間は、わがままでなくちゃいかん」は、
その時の体験から来るものなのかなと思いました。
わたしは結局、越川さんの本も、ほかの本も買わずに店を出ました。

 一俵の米を担ぎし空に月

091009_0634~0002(5)