生きる宝

 なんだか大げさなタイトルを付けましたが、ご容赦いただくとして、
  名月や池をめぐりて夜もすがら
 松尾芭蕉に上の句があることを最近知りました。貞享三年(1686)芭蕉43歳のときの作で、句意は、名月に誘われ月影の宿る池のほとりを黙って歩き続けているうちに夜が明けてしまった…。
 其角ら数名の門人と芭蕉庵に会し、草庵で月見をしたときの作といわれています。
 禅密気功を教わり、自分で毎日練習するようになって体の感覚が少しずつ変化するとともに、自然への興味、自然との一体感をあらためて意識するようになりました。読むだけで終わっていた俳句を自ら詠むようになったのも気功のおかげです。
 ところで、上の句を読み、すぐに『背骨ゆらゆら健康法』の著者でもある朱剛先生のことを思い浮かべました。
 気功の説明をする際に、先生はいくつかのたとえ話をされます。気功を始めるときの状態については、冬眠している熊や蛇があたたかい春の陽を浴び、いいなぁ、気持ちいいなぁとまどろむような夢見ごこちの感じ。雑念は、野に放たれた猿や馬のようなもの。そして、禅密気功がめざす静かで落ち着いた気持ちは、たとえて言えば、月夜の晩に池のほとりをゆっくりと散歩するようなもの…。
 内容の濃い深く味わう必要のあるものは、洋の東西を問わず、やはり喩えをもってするのかなと面白く聞いていました。
 芭蕉の句を目にしたとき、ほんとうに驚きました。朱剛先生はこの句を知っていて、あの喩えをおっしゃったのかと思ったからです。先生にそのことをお尋ねしたところ、ご存じないとのことでした。
 禅密気功におけるイメージが偶然にも江戸の俳諧のエッセンスと一致した、というのが実相のようです。芭蕉が禅密気功を知っていた(ら面白かったのですが)とも思えませんし。深いところで偶々、というか、深いところが共時的に感得されたとでも言ったらいいでしょうか。
 先年亡くなられた教育哲学者の林竹二先生は、人間は(人間だけが)生まれつき備わっていない外の価値を文化として内に取り込み、生きる力にすることができるとおっしゃいました。少し分かりにくいことばですが、次のような例を引きながら林先生は語られた。
 たとえば、蛙の子は蛙、ということわざがあります。蛙の子は、(あたりまえですが)おたまじゃくしです。陸に上がっては生活できない、生物学的には魚類です。ところでおたまじゃくしが成長すると(これもあたりまえですが)蛙になります。蛙は水中でも陸の上でも生きられる両生類。ですから、おたまじゃくしと蛙では生物学的にはまったく違った生き物です。そのおたまじゃくし(=蛙の子)が成長すると自然に(不思議!)蛙になる、なってしまう。日本で生まれたおたまじゃくしをアフリカに持って行って池に放したら、(試したことはありませんが)やっぱり蛙になるはずです。「蛙の子は蛙」のことわざの面白さは、違った生き物に見える(実際に違った生き物です)蛙の子と蛙が、実は成長段階の異なる同じ生き物である、ということにあります。蛙の子(=おたまじゃくし)が外にある価値を自らの内に取り込んで蛙に成長した、というわけではありません。ところが人間は(人間だけは)外の価値を取り込み生きる力にしていくことができる。そこが他の動物と決定的に違うところだと林先生は語られました。
 禅密気功のルーツはインドのヨーガにあるようですが、その時代その時代に生きた先達が文化のエッセンスを内に取り込み自らの生きる力にしてきたものが今に伝えられているのでしょう。
 朱剛先生は禅密気功の伝承者である故・劉漢文先生の信望厚く、ストレス多き日本人に心身ともの深い健康法を伝えるべく日々活動しているわけですが、中国四千年の時間によって磨かれたせっかくの宝を見過ごしにする手はありません。
 気功をすることでからだの変化を味わうだけでなく、ことばに対しても違った地平が見えてきそうで楽しみです。

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