霊的

 わたしは即物的な人間で、霊とか魂とかとは無縁の人間としてこれまで過ごしてきた。今も根本はそうだと思っている。それなのに、子供の頃、外にある便所に行くのはやはり怖かった。関係ないか。
 とにかく、即物的にどうにかなるさと思ってきた人間が、神秘主義的キリスト者である新井奥邃の著作集を手がけるのはどうしたものかと不思議な気がしたし、完結した今も、その気持ちに変りはない。
 去年のちょうど今ごろ体調を崩し、自分が自分でないみたいな変な具合になって、息を吐き吸いして時をやり過ごしていた時間のなかで、怯え畏れながら感じたことは、いのちは機械ではないという当たり前のことだった。試しに目を閉じてみればわかる。空も海も、思い出そうとすれば何だって浮かんでくる。『新井奥邃先生の談話及び遺訓』だったと思うが、スウェーデンボルグについて尋ねられた奥邃が、彼も今はずいぶん先へ行っていることでしょうと語ったという記述が確かあった。生かされて生きるとか、一息とか、どこから来てどこへ行くのかとか、人生の意味はとか、ときどき雑誌の特集で組まれるテーマだが、恐ろしいぐらいに思う。泥の中から目だけ上向きにして見ているようで、気軽に口にできなくなってしまった。