佐太郎さんの好きな歌

 大好きだった祖母の兄の名を佐太郎さんといった。兄妹それぞれの家が近くだったから、兄は妹の家を訪ね、昼でもよく遊びにきた。祖父とも仲がよく、お茶を飲みながら話していた姿が眼に焼きついている。
 佐太郎さんは丸顔。禿頭。声が大きく、いつも明るい。好きな祖母の兄ということもあってか、わたしは佐太郎さんも好きだった。
 佐太郎さんのことで、どうしても忘れられない思い出がある。酒が入ると必ず歌う歌があった。三波春夫の「チャンチキおけさ」。みずから口三味線で、♪チャララ チャララ チャララララララ〜月が〜、と歌い出すのだが、いつもちょっとだけ。一番すら最後まで歌い通すことはなかった。宴席に集まった者たちは佐太郎さんの歌のクセをよく知っていたから、陰で「また途中で止めて話し始めるぞ」などと小声で冷やかした。間もなく佐太郎さんは本当に途中で歌を止め、ほろ酔いの体を傾けては大声で話し始めるのだった。「ほらね」あちこちからクスクス笑い声が洩れた。
 おとといだったか、テレビをつけたら、作家の森村誠一が出ていた。三波春夫が好きなのだという。森村誠一と三波春夫。ちぐはぐな感じもして、なんとなくその番組を見ていた。森村さん曰く、三波は根っからの明るい人で、三波本人は気づいていないところでも、彼の明るさのおかげでどれだけ多くの人が救われたか。その明るさは光源のようであり、おそらく、母の胎に着床した時点からのものだったろう、云々。三波春夫の歌で森村さんの一番好きな歌が「チャンチキおけさ」なのだという。ある時、ふと気がつけば、歌を聴きながら涙が頬をつたい、もう少し頑張って生きてみようと森村さん、励まされたそうだ。
 佐太郎さんの歌で知った三波春夫の「チャンチキおけさ」だが、歌詞をわたしは正確に知らないでこれまで来てしまった。佐太郎さんは、いつも決まって途中まで歌い、あとは、酒の席のどうでもいいような話に移っていったから。
 「チャンチキおけさ」の一番の歌詞はこうだ。
  月がわびしい 露地裏の 屋台の酒の ほろ苦さ
  知らぬ同志が 小皿叩いて チャンチキおけさ
  おけさ切なや やるせなや
 佐太郎さんの十八番の歌の歌詞を正確に知らないできて良かったのかもしれない。いま改めて、あの明るいメロディーで歌われる歌の歌詞を噛み締めると、少しは大人の味がわかる年齢になったわけだし、佐太郎さんがこの歌を好きで必ず歌っていたのも、なんとなくわかるような気がするからだ。
 月がわびしい 露地裏の〜、か。今度カラオケに行ったら歌ってみようかな。