金メダル

 台風の影響か、先週は雨風にあおられ、傘を持たぬ日はなかったが、今週は打って変わって快晴の日が続いている。秋晴れ。運動会。小学生の頃、運動会のときだけ履く足袋が売られていて、それを履いて短距離を走ったものだ。確かに足は軽くなるのだが、慣れないせいで、かえって転ぶ生徒もいたような気がする。一等賞は丸く切った厚紙に金の色紙を貼ったメダルと鉛筆数本だったと記憶している。紐のついた金メダルはしばらく居間に飾っておいたが、いかんせん紙製なものだから、だんだんゆがみ、イカを炙ったような形になって、いつからか見なくなった。

見えないもの

 ずっと前に買って本棚に置いたまま読まずにきた本がいくつもある。あるとき、どういうわけだか目に止まり手にとってパラパラと頁をめくっているうちに、つい引きこまれて読む本がある。鎌田茂雄の『仏陀の観たもの』(講談社学術文庫)もそうしたものの一つ。
 仏教をわかりやすく説いた本は二十代の頃より好きで読んでいたから、おそらくこの本も題名に惹かれて買ったものだろう。それなのに読まずに積んでおいた。数日前、朝、ふと目に止まり読み始めたら止まらなくなった。わたしの意識がというよりも、本のほうが、ある種の「気」を発していて、それが今のわたしの気と同調したとでもいうのだろうか。
 人でも本でも木でも花でも石でも、それぞれの気を発していて、目には見えないけれども、こちらの気に反応してか、こちらが感応してかはわからないが、新しく発見したような気がして驚き、うれしくなることがある。
 『仏陀の観たもの』の中には『正法眼蔵随聞記』からの引用として、「花の色ろ美なりと云えども独り開くるにあらず、春風を得て開くるなり。学道の縁もまたかくの如し」の言葉が紹介されている。

むせ返る「生」

 エライ経済学者が手鏡をつかって女性の下着を盗み見ようとして警察に捕まったとき、作家でありタレントの室井佑月は、「わたしのでよければ見せてあげたのに」と、いかにも彼女らしいコメントを寄せていた。
 この経済学者、今度は電車内で女子高生に痴漢したとして現行犯で捕まった。なんでまた、と、わたしは思った。テレビのコメントも似たり寄ったり。室井佑月のコメントを思い出し、室井はブスではないし、むしろかわいい感じの人だから、半分は冗談にしても、そんなふうに言ってくれる人もいるのだから、もっと巧く事を運んで、なにも事件になるような危険を冒さなくてもよかったのに、と、そこまで考えが及んだとき、自分の浅はかさに気がついた。
 室井佑月ではおそらくダメなのだ。仮にそれが藤原紀香や吉岡美穂であっても。想像の域を出ないが、手鏡でも女子高生のパンツでも、そこにあるのは妄想がらみのむせ返る「生」であり、タレントのブランドみたいな売り物のエロスとは違う。老いていく(その先の死)人間として、むんむんするような「生」に直に触れたかったのだろう。被害者となった女性の屈辱を無視した発言であることは承知している。しかし、やるせない気がするのだ。ただ、やるせない。

佐太郎さんの好きな歌

 大好きだった祖母の兄の名を佐太郎さんといった。兄妹それぞれの家が近くだったから、兄は妹の家を訪ね、昼でもよく遊びにきた。祖父とも仲がよく、お茶を飲みながら話していた姿が眼に焼きついている。
 佐太郎さんは丸顔。禿頭。声が大きく、いつも明るい。好きな祖母の兄ということもあってか、わたしは佐太郎さんも好きだった。
 佐太郎さんのことで、どうしても忘れられない思い出がある。酒が入ると必ず歌う歌があった。三波春夫の「チャンチキおけさ」。みずから口三味線で、♪チャララ チャララ チャララララララ〜月が〜、と歌い出すのだが、いつもちょっとだけ。一番すら最後まで歌い通すことはなかった。宴席に集まった者たちは佐太郎さんの歌のクセをよく知っていたから、陰で「また途中で止めて話し始めるぞ」などと小声で冷やかした。間もなく佐太郎さんは本当に途中で歌を止め、ほろ酔いの体を傾けては大声で話し始めるのだった。「ほらね」あちこちからクスクス笑い声が洩れた。
 おとといだったか、テレビをつけたら、作家の森村誠一が出ていた。三波春夫が好きなのだという。森村誠一と三波春夫。ちぐはぐな感じもして、なんとなくその番組を見ていた。森村さん曰く、三波は根っからの明るい人で、三波本人は気づいていないところでも、彼の明るさのおかげでどれだけ多くの人が救われたか。その明るさは光源のようであり、おそらく、母の胎に着床した時点からのものだったろう、云々。三波春夫の歌で森村さんの一番好きな歌が「チャンチキおけさ」なのだという。ある時、ふと気がつけば、歌を聴きながら涙が頬をつたい、もう少し頑張って生きてみようと森村さん、励まされたそうだ。
 佐太郎さんの歌で知った三波春夫の「チャンチキおけさ」だが、歌詞をわたしは正確に知らないでこれまで来てしまった。佐太郎さんは、いつも決まって途中まで歌い、あとは、酒の席のどうでもいいような話に移っていったから。
 「チャンチキおけさ」の一番の歌詞はこうだ。
  月がわびしい 露地裏の 屋台の酒の ほろ苦さ
  知らぬ同志が 小皿叩いて チャンチキおけさ
  おけさ切なや やるせなや
 佐太郎さんの十八番の歌の歌詞を正確に知らないできて良かったのかもしれない。いま改めて、あの明るいメロディーで歌われる歌の歌詞を噛み締めると、少しは大人の味がわかる年齢になったわけだし、佐太郎さんがこの歌を好きで必ず歌っていたのも、なんとなくわかるような気がするからだ。
 月がわびしい 露地裏の〜、か。今度カラオケに行ったら歌ってみようかな。

第8期

 気がつけば、あーらら、今週から弊社8年目に突入していた。10月1日創立だから、めでたく7周年を経たことになる。どの版元もそうだろうが、本が売れなくて困っている。そこからいろいろな問題が生じる。思案のしどころ、知恵のだしどころ。売れることを前提に考えていたら手痛いしっぺ返しを食らう。今は、売れないことを前提に仕事をとらえ、そこからはじめて1冊でも多く売るためにどんな工夫が必要か、というふうに頭をつかわなければならない。他社のホームページも睨みながら、一発逆転の発想はゆめゆめ持たぬよう気を引き締めている。

カッワーリ初体験

 カッワーリはパキスタンの宗教音楽。CDでヌスラット・ファテ・アリ・ハーンを聴いたり、ビデオで観たりはしていたが、舞台での演奏をナマで観るのは初めて。多聞君のお母さんからいただいたチケットを持ち渋谷Bunkamuraへ。今回の演奏は、ファイズ・アリー・ファイズを主唱者とする楽団。ファイズは1962年、パキスタンのパンジャーブ州生まれで、7代続くカッワールの家柄で音楽の基礎を学びながらも、流派の違うヌスラットにあこがれ、エッセンスを吸収すべく研究したという。
 二階席で観たのだが、まず、その音圧というか声量に圧倒される。アッラーの神を称える詞の意味はわからないけれど、なにか祭にでも参加しているような感動が体を走る。ファイズにヌスラットの魂が宿ったかのよう。いのちがほとばしる。4曲ぶっ通しで演奏(1曲の演奏時間が長い!)し、演奏者が立ち上がった(カッワーリは、座って演奏する)とき、ファイズはエネルギーを使い果たしたかのようにフラフラとくず折れ、隣りの人間に腕を支えられて退場。スタンディング・オベーションの嵐。ナマの音楽の素晴らしさを堪能した夜だった。

東北は

 秋田の父から電話。米の収穫がすべて終了し、例年に比べかなりの豊作だったとのこと。夏から秋にかけての天候によって実の入りが大きく左右されるから、曇りが続いた日など、はてどんなものかと、こっちにいても気にかかる。保土ヶ谷のよく行くお店、小料理千成のマスターかっちゃんに訊いたところ、マスターの出身地・福島も豊作だったそうだから、日本海側、太平洋側の区別なく、東北は総じて豊作だったのかもしれない。二期作の地方もあるが、ほとんどの農家にとって収穫は一年に一度。収穫祭も今年は華やぐだろう。