萩原朔太郎の場合

   憂鬱の川辺
  川辺で鳴つてゐる
  蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい。
  しぜんに生えてる
  するどい ちひさな植物 草本の茎の類はさびしい。
  私は眼を閉ぢて
  なにかの草の根を噛まうとする
  なにかの草の汁をすふために 憂鬱の苦い汁をすふ
  ために。
  げにそこにはなにごとの希望もない。
  生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
  梅雨だ
  じめじめとした雨の点滴のやうなものだ
  しかし ああ また雨! 雨! 雨!
  そこには生える不思議の草本
  あまたの悲しい羽虫の類
  それは憂鬱に這ひまはる 岸辺にそうて這ひまはる。
  じめじめとした川の岸辺を行くものは
  ああこの光るいのちの葬列か
  光る精神の病霊か
  物みなしぜんに腐れゆく岸辺の草むら
  雨に光る木材質のはげしき匂ひ。
                       (『青猫』の一篇)

カネボウSALA

 資生堂マキアージュのCFについ見とれたことを先日ここに書いたばかりだが、今度はカネボウ。幻想的な絵柄の中に、首が捻じ曲がった長靴を穿いたアルマジロ、ラッパのくちばしを持つ白い鳥、これからパーティーにでも出かけていきそうな着飾った双子の貴婦人など、なんとも魅力的で不思議な登場人物たちに囲まれた物語世界。そこに美少女SALAが現れる。
 かつてサントリーローヤルのテレビコマーシャルで、砂漠でサーカスをしているような摩訶不思議なものがあった。キャッチコピーは、
  その詩人は底知れぬ渇きを抱えて放浪を繰り返した。
  限りない無邪気さから生まれた詩。
  世界中の詩人達が青ざめたその頃、彼は砂漠の商人。
  詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる。
  永遠の詩人ランボオ。
  あんな男、ちょっといない。
 カネボウSALAのコマーシャルは、酒は出てこないけど、ちょっとあれを彷彿とさせる。わずか二十秒ほどなのに(だからこそなのか)、圧倒的で濃密な物語に驚かされる。物語がなければ生きていけない人間の哀しさがそこにある。

トップページ

 小社ホームページのグランドリニューアルを多聞くんが進めてくれているが、それに伴い、トップページを日替り持ち回りで書くことになった。これまで編集部の人間が週交代で書いてきたが、これからは営業部も加わる。読者に新しい風を感じてもらえればと願ってのことだが、本人にとっては何よりも文章修行になるだろう。さっそく昨日は初めての岡田くん。夏休み期間中の旅の思い出を書いてくれたが、ソウル・ミュージックにめっぽう詳しい彼のこと、その方面の話もいずれ聞かせてもらえるだろう。

祭のあと

 夏休みや冬休みが終わりに近づくと、なんとなく淋しくなったものだ。「祭のあとの淋しさは たとえば女でまぎらわし」の歌も知らなかった少年は、宿題といっしょに淋しさもランドセルに詰め込んで登校するしかなかった。今は、なんでも詰め込めるランドセルはない。空を見上げて溜め息をつく。風が頬を撫でる。見上げ過ぎて首が痛くなり青空の青が色を無くす。水平に戻してそれから、意味もなく「さてと…」など言って歩き出す。

十七年ぶり

 当時つき合っていた女性と二人でバリ島に行ったことがある。日本人客が多く訪れるのだろう、浜辺の近くの店を冷やかして歩いていると、日本語で話しかけられることが多い。見るだけ。安いよ。後で。あの青年も、そうやって声をかけてきたうちの一人だった。青年はあまりしつこくなく、買う気のないわたしたちは、じゃあと言って別れた。それが良かったのかもしれない。それからどれくらい、ぶらぶらと歩いたろう。食事もしたりして、街の散策をさらに続けた。と、別の場所で、またさっきの青年に会った。今度は、仲良くなるのに時間はかからなかった。
 青年は日本語がめっぽう上手く、わたしたちは気を許し、いろいろなことを語り合った。これは騙しのテクニックかもしれぬと一瞬頭をかすめたが、杞憂に終わった。青年はレンタカーのジープを借り出し(払いはもちろんわたしがした)、ここはという場所を次々案内してくれた。そのときずっと流れていた音楽がボブ・マーリーだった。
 青年のおかげで、感じたままを日本語で伝えられるし、行きたい場所へ行くのに交通手段を考える心配もなくなったわたしたちは、もはや旧知の仲のようになっていた。少しけだるい感じの、それでいて腹にずんとくるボブ・マーリーの曲が旅の想いをさらに掻き立てた。青年は学生で、店でアルバイトをしているのだった。最近恋人と別れたのだという。バリのサンセットをぜひ見せたいというのは、わたしたちにという気持ちもさることながら、彼のこころの表れだったかもしれない。
 わたしはそれよりもボブ・マーリーのことが気になっていた。何というアルバムか青年に尋ねると、カセットテープ屋に連れていってくれ、同じものを探してくれた。が、探し物は見つからなかった。日本に帰ってから見つければいいかと思った。あれから十七年がたつ。
 日本に帰ったわたしはさっそくCDショップに直行。ジャケットだけを頼りにあてずっぽうに何枚かCDを買った。家に帰り、ドキドキしながら買ったばかりのCDをかけてみる。すべてハズレ。以来、わたしのCDラックに占めるボブ・マーリーの面積は相当なものになった。しかしバリで聴いたボブ・マーリーに再会することはなかった。わたしは半ば、というか、ほとんど諦めていた。あれは、バリ島のあの景色、空と海、山、棚田、風、サンセットとともに聴いたから特別の印象をわたしに残したのだと。
 ところが、昨日のことだ。社内に流れるBGMに耳を奪われた。オーディオの傍に置かれたジャケットは赤い地にボブ・マーリーの写真が配されたもので、よく知っている、絵柄としては。しかし、わたしはなぜだか知らぬが、バリ島で聴いた音楽は、このCDではないと根拠もなくずっと思ってきた。こころに焼きついた印象とジャケットの雰囲気があまりに違っていたから。だから、日本に帰ってきても、そのCDだけは買わなかった。
 訊けば、内藤君がおととい買ったばかりだという。ベスト盤を好まない彼が、手に取ったまま戻すのを忘れレジに差し出したそうだ。数枚買った中の1枚がそれだった。これまでの経緯を内藤君に伝えたら、もう1度かけましょうかと言って、かけてくれた。やっぱり間違いない。十七年前の感情がバリ島の風景と一緒によみがえった。前置きが長くなった。そのCDというのはコレ

台風一過

 台風7号が横浜を通過したのは昨日の昼頃だったろう。食事を終えて外へ出たら、雨が強風に煽られ波を打っていた。傘をすぼめて足早に交差点を渡るひと、ビニールの雨合羽をまとい、しかつめらしい顔付きでペダルをこぐ自転車の男などさまざまだ。傘がお猪口にならぬように気をつけながら坂を上った。
 夕刻、椅子を回して西の空を見れば、雨はすっかり上がっていて、日の光を受けた雲が幻想的な色に輝き、目を楽しませてくれる。また一気に暑くなるな。
 朝、強い日差しと蝉の鳴き声で目が覚めた。ぎょっ。カマキリ! ゆっくりゆっくり網戸を縦に上っていく。

対談

 『新井奥邃著作集』完結にあたり、監修者の一人、コール ダニエル氏と日本思想史が専門の黒住真氏の対談がきのう行われた。日本思想史、特に日本における近世の儒教に造詣の深い黒住氏から、奥邃の文章によく登場する「父母神」「二而一」「日用常行」など、キリスト教としては不可解、また異端ともみられる用語についての解説があり、新しい光が当てられる形となった。別巻に収録したコール氏の労作「聖書語句引照一覧」とあわせ、儒教における天や道、徳といったことがどんなふうに奥邃に流れ込んでいたのかの一覧が欲しいところだが、それは今後の研究を待つしかない。対談の中身は来月「週刊読書人」に掲載の予定。撮影は橋本照嵩氏。