風景論者

 専務イシバシ、営業のMさんと松陰神社前駅ホームで待ち合わせ。保土ヶ谷から松陰神社前まで行くにはいくつかの方法があるが、ネットで調べると、保土ヶ谷-(湘南新宿ライン)-渋谷-(田園都市線)-三軒茶屋-(世田谷線)-松陰神社前、というのがトップに出てきたので、そのルートで行くことにする。乗り換えにかかる時間まで計算してあるのか、遅れることなく乗りたい電車に乗れた。素晴らしい!? 世田谷線は家並みのすぐ横をゆっくり進むから、しばし車窓の景色を眺めながら一人ぶらり旅の気分に浸れる。
 約束の時間の五分前に着いたのだが、すでにイシバシとMさんが行儀よくベンチに並んで座っていた。便利になったものだ。
 初めて東京に出てきた折、上野で大船行きの電車と大宮行きの電車を間違えて乗った。どんどん東京から離れ、何駅かやり過ごした後でやっと間違いに気付き、急いでホームの反対側の電車に乗り換えた。それでも待ち合わせの時間に遅れなかったのは、子供のときから方向音痴で地理に弱く、間違えることがしょっちゅうで、たっぷり余裕をもたせて行動することが自然と身に付いていたからだ。
 いまはクルマを運転することはなくなったが、かつてハンドルを握っていた頃、地図を頼りに目的地に向かうことはなかった。というより、地図を頼りにすることができなかった。地図が悪いわけではない。地図を見ても地理が頭に入ってこないのだ。したがって、必ず妻にナビゲーションを頼むか、それでなければ、一度走ったことのある道を走るようにした。
 わたしは自分のことを風景論者だと嘘ぶいた。地図が役に立たない代わりに風景が役に立つ。ここの景色は見たことがある。この光の感じ。どことなく殺風景な町並み。急な坂道の横の歩道。そこに差す木々の影などなど。機械によるナビゲーションシステムが発達したことにより、風景論者的運転は廃れた。なんて。いや、逆に今こそわたしのような人間が車を運転するにはいいのかもしれない。次は右、次は左と指示してくれたら、ますます周りの風景を楽しみながら運転できるではないか。ただ、よそ見運転で危険が増す。それは問題だ。極めて。風景論者はやはりクルマの運転には適さないということか。