寝て穿く?

「前を行くひと、見てみなよ」と、わたし。
「え?」と、専務イシバシ。
「よく入ったと思ってさ。パッツパツだよ。あれ、ジーンズじゃなきゃ破れてるよきっと」
「そんなことないわ。わたしも若い頃は仰向けに寝てギュウギュウ詰めにして穿いてたもの」
「は!?」
「寝て穿くと入るものなの。お腹が凹むから」
「立ったままでお腹を凹ませればいいじゃないか」
「それではダメなの。仰向けに寝てグイグイねじ込ませるようにしたほうが入るものなの」
「そんなものかねぇ」
「そんなものよ」
「そうすると、あのひと、ほれ、前を行くあの人だよ。彼女もそうやって穿いたのかね」
「そうだと思うよ」
「寝て穿くねぇ?」
「そんな感心することじゃないわよ。女性なら誰だって経験あるはずだもの」
「そんなものかねぇ」
「そんなものよ」

飯島さんの詩

 飯島耕一さんの本を用意(担当はナイトウ)していて、先日、一篇の詩ができたからこれも追加して欲しい旨の手紙が社に届く。「砦」と題されたその詩の中に出てくる「精神も足も一歩一歩」というところで泣けてきた。
 羽のように軽く華やいで見えるひとのこころの底はどうだろう。むしろ、すれ違うバッファローのようにずんずん坂を下りてくるヘソ出しの女の子やFスーパーでまつげを真っ黒にして働いている女の子に、幻想であっても勝手な共感を寄せているのだ。
 言葉はこころと体をつなぐ枝のようなものかもしれない。土からの養分を樹液として葉の一枚一枚まで送り届け、葉はお返しに光合成を繰り返し、木に必要な養分を空中から取り込む。枝振りがよくなくては木も葉も花もない。いや、たとえるならば、言葉は土からの養分であり光合成のためのひかりとすべきか。養分かひかりか分からないけれど、生きていくのに必要なものを取りこみ、精神と足を一歩一歩、前に進ませなければ。飯島さんの詩はそんなことを感じさせ、考えさせてくれた。

バッファロー

 出社の折、紅葉坂の途中ですれ違うヘソ出しルックの女の子がいることを前にこの欄に書いたことがある。今もときどきすれ違う。先日も会った。最近、髪を染めたようだ。根元のほうを編んでいる。(呼び名がきっとあるのだろうが、こちとらその方面の知識がない)ヘソにピアス。目にカラーコンタクト。着ているものも相当派手だ。(冬のあの寒い時期、ダウンジャケットを着ているのにヘソは見えていたことがあった。あくまでもヘソは出す! 主義主張があるのか?)口元を「へ」の字に結んでいる。そして、真っ直ぐを見、ずんずん坂を下りてくる。精悍! 頑丈な体付き。どういう人なんだろう。どこへ行くのだろう。何をしている人なのだろう。興味は尽きないが話しかけるわけにもいかず、坂を上りきったあたりで振り返ると、バッファローははるか信号機で立ち止まり、足を蹴上げていざ出陣の態勢なのであった。

酒の味

 体調不良をきっかけに昨年の9月から酒を断っていたが、約8か月ぶりに酒を飲んだ。といっても、350mlの缶ビール1本と焼酎の水割り一杯程度だが。新入社員歓迎会だというのに社長のわたしがお茶やウーロン茶では格好がつかぬと思ったことと、別に医者に止められているわけでなし、そろそろ飲んでもいいかな、飲みたいと思ったからだ。ほんの少しの量だったが、久しぶりに飲んだためか顔が火照って、いい気分になった。部屋の真ん中にある仏師さんに作ってもらったドでかいテーブルを囲み、会社創立以来のエピソードからそれぞれの個人的な思い出話まで飛び出し、笑いが絶えず、楽しい会だった。新人二人の個性もきらめき、仕事とは別の意味でグッと社に溶け込んだようだ。

一雨ごとに

 四月も半ば、天気予報によれば最高気温が20度になる日もあり、さすがに暖かくなった。この季節、新入生、新入社員、新人研修と「新」のつく言葉が多く、街にも「新」が溢れている。新春あり新緑あり。
 わたしが入った秋田の高校は、全国でも四番目に歴史が古い(記憶に間違いがなければ)とかで、この季節になると必ず思い出すことがある。
 応援歌。歴史が古いせいで、とにかく歌の数が多い。新入生は短期間にそれを全部覚えなければならない。記憶力のいい子はいいが、十いくつもある応援歌を1週間かそこらで覚えられるわけがない。と、誰もが思ったはずだが、こわもての応援団が各教室を回り教えるものだから不平を言いたくても誰も言い出せない。必然、一生懸命覚えるように努力し、わたしはやらなかったが、通学途中の汽車(電車でなく当時はディーゼルカー)のなかでも友達同士小声で練習している生徒がいた。あれはつらかった。今はどうしているだろう。伝統を重んじ、やっぱり大声出して覚えているのだろうか。

対談

 民俗学の泰斗・谷川健一さんと新宿中村屋5階の個室にて対談。2時間に及ぶ。『新井奥邃著作集』別巻の月報に収録予定。
 こちらから事前にお送りしてある本と資料を谷川さんがテーブルに載せられたのを目にし、いささか緊張もしたが、もともと谷川さんは編集者でもあられたわけだから、胸を借りるつもりで質問に答え、谷川さんも奥邃への関心を次々開陳してくださり、途中笑いも入って、自分で言うのもおかしいけれど、なかなかいい対談になったのではないかと思う。
 帰国後の奥邃の暮らしぶりはシンプルに見えるけれども、それは形がシンプルなのであって、奥邃自身は相当複雑な人物だったと思いますよ。人間は複雑ですよ。天国も見れば地獄も見るのが人間ですから…。谷川さんの言葉が耳に残った。

新人二人

 今回の編集者募集で二人新しい仲間が増えた。入社早々、編集長ナイトウ(このたび、若頭ナイトウは、若頭からめでたく編集長に昇格。武家屋敷ノブコは社の質的向上と発展に伴い出版部長に)から校正の仕事を頼まれた二人は、顔を上げるのも惜しむように仕事に没頭している。そんなに持続的に集中してたらドライアイになっちまわないかとこっちが危惧するくらいに一所懸命だ。見ていて気持ちがいい。
 編集者本来の仕事に限らず、お茶の淹れ方から電話での応対、注文の取り方、梱包の仕方、発送の仕方、紙を真っ直ぐに切る切り方(そんな簡単なことをと思うかもしれないが、実際にやってみると、これがなかなか難しい。定規を当てることはだれでも知っている。問題は、定規を当てて「切る」と思って切っては失敗する場合が多いこと。定規を当てて紙を「撫でる」イメージで何度かカッターを真っ直ぐにスライドさせると、結果として紙がキレイに切れている)などなどキリがない。覚えなければならないことは山ほどある。頑張って欲しい!
 ところで、わたしも含め、長くいる者はこの新人二人から学ばなければならないとつくづく思うのだ。謙虚さ。そんな古めかしい精神論をと笑うなかれ。謙虚さを失うところに落とし穴があるのだぞ。失敗を招く。それもまた経験しなければわからないことと穿った言い方をしたらそれまでで、いま、せっかく学びの対象が目の前にいるから言っている。新人の姿から何を学ぶかということが、教える側にとって最重要の課題のはずだ。