初校

 編集者の仕事のうちで、最も緊張するのが初校ゲラを著者に見てもらうことだ。いろいろ、本づくりにはポイントポイントで大事な勘どころがあるけれど、著者の原稿に第一の読者(=編集者)として手を入れる(ハッキリ言って、直す)のは、並大抵のことではない。
 第一の読者として、内容の理解はもちろん、著者の身体的リズムとでもいうのか、呼吸、文体を尊重しつつ、なおかつ、第二以降の読者(一般読者)が、著者の言いたいことを、より理解しやすいように配慮しながら、ていねいにていねいに読み、必要に応じて手を入れ、その行為が文章にどういう影響(悪影響を与えるなど、もってのほか)を与えたか、著者の意図するところを捻じ曲げていないか、よくよく注意しなければならない。
 手を入れるごとに、段落一つ、章一つもどって何度でも読み返すことが肝要だ。かといって、卑屈になってもいけない。著者の文章を尊重するという口実の下に、一字一句間違えずに入力、組むことで仕事が終わりとする考え方も一方にあるからだ。無難ということで言えば、それで著者とぶつかることはない。著者が書いた通りなのだから。誤解を恐れずに言えば、校正、校閲というのは、著者の文章を、著者以上に理解しなければできる仕事ではない。そのことに自信がなかったら、まずは、一字一句間違えなく入力、変換しているか確かめることから始めるべきだ。
 初校で、どこに手を入れたのかを著者が見れば、編集者としての力量は自ずとわかる。文章に手を入れたことで試されるのは、むしろ編集者のほうだ。真面目にやったから、で通るような甘い話ではない。
 初校を送り、著者からの連絡を待つ。緊張の時間。手紙の場合もあれば、電話でのこともある。こちらの仕事を信頼していただけたかどうかは、手紙の一文、電話のひとことで分かる。それをいただければ、極端なことを言えば、本はもう出来たも同然だ。
 こんなことがあった。あるとき、演出家の竹内敏晴さんから『春風倶楽部』の原稿がFAXで送られてきた。最後がどうしてもしっくりこない旨のコメントが添えられていたので、呼吸をととのえ、何度も何度も読み返し、しっくりこないと言ってきたその文章に、読点ひとつを入れ、「は」を「が」に直し返送。それが編集者としての私のなし得る精一杯だった。竹内さんからすぐに連絡があり、それで進めて欲しいとのこと。ホッと胸を撫で下ろした。竹内さんとはニ十年来の付き合いになるけれど、文章を読む、それも、編集者として読むとなると、付き合いの年数など関係ない。普段の付き合いとは別の真剣勝負の気配が支配していなければならない。勉強を怠らず、経験を踏むしかないようだ。

営業裏話 その2

 きのうの昼は、いつものように専務イシバシ、武家屋敷ノブコといっしょに外出。桜木町駅近くのスパイシーというカレー屋でカレーを食べた。カレーを食べながらする話ではないな、と一瞬頭をかすめたが、長い付き合いだし、ま、いっか、ということで、隣りにいたイシバシに「スイマグ飲んでる?」と訊いた。
 「それがね。飲んでたんだけど、ゆうべはちょっと飲むのをやめたのよ」
 「なんで。せっかくあげたのに。お腹の調子がスコブルよくなり、肩の凝りも取れたって喜んでたじゃないの」
 「そうなんだけどね。きのうOさんと営業で出かけた折に、ところかまわずオナラがぷっぷと出るのよ。ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ。外を歩いていてもぷっ。東大名誉教授の研究室でもぷっ。ノーベル賞と言ったとたんに、ぷっ。あのー、と言ったら、ぷっ。おいとまのあいさつをしてお辞儀したら、ぷっ。あまりに出るものだから、それでね、けさはちょっと飲むのを控えたわけ」
 「あはははは… そりゃ、おかしいわ。でも、それって、腸が活発に動いているっていう証拠じゃないの」
 「あ。そうか。なるほど」
 「そうさ」
 イシバシの隣りの武家屋敷は、二人の会話を聞いてくすくす笑っている。ちなみにスイマグは、西式健康法ではよく使われる下剤で、水酸化マグネシュウムが正式名。腸内容の浸透圧を高めて水分の吸収を抑え、液状にし排泄を容易にするというもの。スイマグの原料は海水100パーセントで、化学物質は一切使われていない。
 「それ、おもしろいからさ、明日のよもやまに書いていい?」
 「いいわよ。タイトル何にするの? ぷっぷ、ぷっぷ?」
 「営業裏話 その2、でいんじゃない? ところで、ぷっぷとやったとき、Oさんはどうしていたの?」
 「いや、なにも。悪いと思って黙っていたんじゃないかしら。でも絶対に聞こえていたはずよ。ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ。そりゃもう際限がないんだから…」
 「へ〜。あはははは…」

営業裏話

 きのうは午後から、専務イシバシと、このところこの欄にちょくちょく登場する営業の新人Oさんが連れ立って大学回りに出かけた。
 詳しいことは、本日出社してから聞けばいいわけだが、二人の珍道中ならぬ珍営業ぶりを早く知らせたかったのか、夜、イシバシから電話がかかってきた。概略まとめると、以下のようになる。
 いまは東大を退かれているらしいが、東大名誉教授でいらっしゃる先生の研究室に二人で入ったそうだ。あいさつした後、イシバシが先輩としていろいろ営業トークをしている間、Oさん、研究室内の書棚を眺めていた。これも営業の大事なポイントで、書棚をササッと眺めることで、かなりの情報が得られる。先生の説明を待つまでもなく、興味や関心の所在、研究の方向性みたいなものをうかがい知ることができるからだ。
 イシバシの営業トークが一段落ついた頃を見計らい、絶妙のタイミングでOさん、「書棚にダンテ関連の書籍が並んでいますね」と言ったそうだ。素晴らしい! なぜなら、なんてったって、ウチでは大部の『ダンテ神曲原典読解語源辞典』を出している。地獄篇、煉獄篇、天国篇とあり、一冊の本体価格が四万六千円と破格。しかし著者の福島先生がニ十年の歳月をかけて執筆した歴史的辞書なのだ。大江健三郎、柳瀬尚紀、中条省平の三人の碩学が絶賛し推薦文を寄せてくださった。
 東大名誉教授の先生、Oさんの言葉にピクリと反応したらしく、営業のイシバシ、それを見逃さなかった。間髪入れずに、「推薦文を三名の方からいただいておりまして、ひとりは、ノーベル賞を受賞した、あの有名な、えー、あの、ノーベル賞の、あのう…」と、大江健三郎の名前を大事な場面でド忘れしてしまったらしい。こういう時というのは、おかしなもので、焦れば焦るほど思い出せないものだ。そこで若いOさん、記憶力の衰えなどまったく感知せぬOさんが、「湯川秀樹!」と叫んだ。そう! ノーベル賞と言ったら湯川秀樹。日本人で初めてノーベル賞を受賞した人。早押しクイズ。ピンポ〜ン!! んなわけがない。
 その話をイシバシから電話で聞いて、大江健三郎の名前を忘れるイシバシもイシバシなら、ノーベル賞と聞いて、パブロフの犬じゃあるまいし、条件反射みたいに「湯川秀樹!」と言ったOさんもOさんだと思った。今はダンテの話、文学のことであって、物理学は関係ないじゃないの。ま、ここに、現代日本の教育における深い問題が象徴的に現れていると、わたしは見たね。Oさんの名誉のために言っとくと、彼女は名のある有名国立大学を出ている。また、日々、イシバシに就いて力をつけている。営業のパンフレットも自分で作れるようになった。商品知識もずいぶん増えたろう。そのOさんが大江健三郎の名前を忘れたとは考えにくい。ところが、ノーベル文学賞ではなくノーベル賞と聞いて、早押しクイズとばかりに「湯川秀樹!」が口をついて出てしまったのだろう。
 というようなことがあったそうだが、東大名誉教授のその先生、『ダンテ神曲原典読解語源辞典』をまとめて三冊、ご自身の研究費で購入してくれることを約束してくれたそうだから、それは本当によかった。

りんご一個

 会社帰り、保土ヶ谷駅で降り、すぐ近くにあるスーパーマーケットに寄った。最近凝っている自家製野菜ジュースに入れる白菜、りんご、レモンがなくなったので。なるべく新鮮なほうがいいから、いつも多く買わない。置かれている場所も分かっている。ぱぱぱぱ、と買ってすぐ帰る、つもりが、とんだところで足止めを食った。
 四分の一にカットされた白菜を籠に入れ、さて次はりんごと思って、その場に立つと、先客がいた。りんごも何種類か置いてあるが、いちばん多く置いてあるのはフジ。値段もそんなに高くないので、この頃はフジを買う。
 さて、くだんの先客、フジに張りついて、あれ、これ、それ、これ、あれ、それ、これ、と、手にとっては戻し手にとっては戻ししている。気に入ったものを買おうとしているのだろうが、彼女が選んでいる間、わたしは後ろで黙って待っているしかない。ま、そのうちに、場所を空けてくれるだろうと思っていたのだが、後ろに立っている人間(わたし)の存在を知ってか知らずか、あれ、これ、それ、これ、あれ、それ、これ、を延々と続けている。上の段で飽き足らず、重ねて置かれている下の段のりんごまで手にとって物色している。すでにこの時点で三分は経過していたろう。よほど「お客さん、すみませんが、さっきから待っているんですけど…」とでも言おうと思ったが、こんなに時間をかけて物色するのも珍しいと思い、好奇心も手伝って、途中から時間のことは気にせず、最後まで見届けてやろうと決心した。
 何分経ったろうか。最初に時計を見ていればよかったのだが、まさかそんなに長くかかろうとは想像だにしなかったから、物色開始時刻が分からない。が、しかし相当な時間が経過したことは確かだ。
 結局、そのオバさん、何を根拠に他のフジでなく、そのフジに決めたのか分からずじまいだったが、とにかくフジを一個だけ籠に入れ、また入口のほうに戻っていった。わたしの好奇心もそれまで。
 なぜオバさんが店内を進行方向に向かわずに、フジ一個を取り入口のほうへ向かったかは、もうどうでもよくなった。わたしはわたしで欲しいものを籠に入れレジに並んだのだ。

B級にあこがれて

 サブカルチャーとでもいうのか、いわゆるB級本、B級CDというものが世にある。決してメジャーではなく、それでいて、他人の評価を気にせず一所懸命、生きることの切なさと喜びとどうしようもなさを表現しているような。そして、どこか、いかがわしい。表現において上手いかヘタかといえば、だいたいヘタ。
 以前この欄で紹介した『男宇宙』というCDがあるが、あれは相当なもので、横浜モアーズ六階のタワーレコードで試聴したとき、ジャイアント馬場が歌う「満州里小唄」を聴いて、思わず声を出して笑ってしまった。だって、モゴモゴして何を言っているのか全然わからないんだもの。
 さて、わたしが今回見つけたCDは、池玲子の『恍惚の世界』。池玲子はB級どころか、知る人ぞ知る七十年代を代表するポルノ女優であり、いわゆる団塊の世代のマドンナだったはず。わたしはそれよりちょっと時代がズレるので、銀幕上の彼女の姿を見たことがない。耳学問、サブカル雑誌で知っているだけ。ポルノ女優としてはA級でも、そのCDとなると、どうもあやしい。いかがわしい。LP盤レコードがかつて出ていたそうだが、プレミアがつき高価格で売買されていたところ、今回のCD発売になったようだ。
 タワレコのホームページで検索、これは相当あやしいと見て実物を見に行ったら、棚のそこだけ十五センチぐらいゴソッと空いており、売り切れ。ははあ、と思ったね。池玲子ファンが買っていったに違いない。一週間ぐらい置いてまた行ってみた。今度はゴソッと入荷していた。試聴するまでもなくB級オーラがぷんぷんだったから迷わずに購入。家に帰りさっそく聴いた。あはん、うふん、うーん、と喘ぎ声が全曲に挿入されており、それが半端じゃない。隣りに聞こえそうで、こりゃまずいと思い、急いでボリュームを下げた。どんなCDかというと、こんなの

ブルース

 日本語で片仮名表記する場合、ブルーズが元の発音に近いようだが、世間でブルース、ブルースって言うから、まあ、ここではブルースで。
 映画でヴィム・ヴェンダース監督の『ソウル・オブ・マン』を観たが、嵌まってしまい、サントラ盤CDを買った。会社に持っていき掛けたところ、音楽にうるさい若頭ナイトウも気に入ったようで、みずからスタートボタンを押している。だけでなく、すでに相当数のブルースのCDを持っているのに、つられて何枚か買い込んだらしい。ブルースに関する本まで買ったとか。勉強熱心だ。
 『ソウル・オブ・マン』、映画もよかったが、CDだけでも染みてくるんだなあ。ヴィム・ヴェンダースはドイツ人のはずだが、ブルースをこころから愛しているんでしょう。ジャズのブルーノート・レーベルを創ったアルフレッド・ライオンもドイツ人。なにかあるのか。
 ぼくは、このCDを聴いていると、津軽三味線の初代・高橋竹山や瞽女(ごぜ)歌と共通したものを感じる。いろいろ装飾するんじゃなくて、削ぎ落とし削ぎ落とし、これだけは言わなくちゃ、みたいなところで歌うとでもいうのか。サントラ盤CDはこちら。錚々たるメンバーが参加している。

 この頃、晴れた日にはベランダに猫が来る。三毛猫。一匹のこともあれば、二匹のことも。今朝も来ている。今日は一匹。飼い猫なのか、野良猫なのか。
 東向きのベランダに植物を置いてあるのだが、数年前、ゴミ捨て場に捨ててあった木の台を、鉢を置くのにちょうどいいと思って拾ってきた。猫は、その台の上に陣取り、丸くなり、朝日を浴びて気持ちよさそうに目を細めている。窓越しに、猫とわたしの距離は、ほんの1メートルほど。ときどき目が合う。驚くでもなし。今日も来てたのか。やあ。……
 子供の頃、秋田の家では猫を飼っていた。黒い、尻尾の丸い猫と決まっていた。座っていると寄ってきて、あぐらの中に入ったり、腕枕をしているところに擦り寄ってきしたりして、暖かくて気持ちよかった。それと、あの、ぺたんと折り曲げて楽しんだ耳。梶井基次郎の小説で、ホッチキスでぱちんとやりたくなる、みたいなことが書いてあるのを読み、そうそう、そんな感じと思ったものだ。……
 ベランダの猫、安心しきっているのか、よほど気持ちいいいのか、彫刻みたいに身じろぎ一つしなくなった。