へなちょこ

 骨折した鎖骨の状態を診てもらいに仙台へ。月1回の診察だから6回目ということになる。ウチから『明治のスウェーデンボルグ』を出している瀬上先生はいつもにこやか、お顔を拝見するだけで病院嫌いのわたしはホッとする。きのうは、レントゲンを撮らずに、なんという機械か分からないが、いきなり骨を透視する機械の台に乗せられ、折れた箇所のくっ付き具合を診てくれた。「大丈夫ですね、もう」と先生はちょっと仙台訛りのある言葉で言った。半年の胸のつかえが一気に下りた感じ。「2ヶ月後にまた見せに来てください」「はい」「肩をぶつけないように気をつけてください。それと、重いものはなるべく持たないように」「はい。ありがとうございました」
 超多忙な先生に別れを告げ、次にリハビリ科へ行き左腕を動かすリハビリをする。ここの先生がまた穏やか〜な感じの先生で、なんでも気になることを話してくださいというから、つい、最近感じている「死の不安」について話してみた。黙ってわたしの話を聞いていた先生は、仕事がら死を看取る場面の多いこと、死の受容の段階について、さらに、断定的でなく、こういうことが大事ではないでしょうかということを静かに話された。「三浦さんは第1段階に入ったということではないでしょうか」そうかもしれないと思った。
 大好きだった祖母と祖父が相次いで亡くなった時、悲しくて涙を流しもしたけれど、今思えば、自分のことはカッコに入れ、ただそこに佇んでいたように思うのだ。たかが鎖骨を1本ポキッと折った(涙)ぐらいなのに、それがきっかけとなり、あざやかにカッコが外れ、臆病なわたしは、自分の死について初めて思いをいたし、へなちょこにも鬱々と気を病むようになった。糸の切れた凧状態。枝から離れた葉っぱのよう。川を流れる笹舟みたい…。
 そうなってみると、たとえば新井奥邃が自分の死に際して「墓も作るな」と周囲に語ったこと、禅僧の澤木興道が晩年、自分が死んだら近くの医科大学に献体せよとの遺書を持ち歩いていたなどの話を聞くにつけ、これからどんなに勉強し精進しても、そんな境涯に自分はとてもなれそうにもない。けれども、ただ日々笑って面白おかしく暮らす(そうやって最後まで行けたらどんなにいいだろう)より、生まれたからにはいつか必ずやってくる自分の死について少しは思い(思うだけではダメかも知れぬが)をいたしながら、一日一日を感謝して暮らせるようになりたいと、これまたほんの少しだけど思うようになった。