安心立命

 好きな『大辞林』によれば、「あんじんりゅうみょう」「あんじんりつめい」「あんしんりつめい」「あんじんりゅうめい」と言ったりするそうで、信仰によって心を安らかに保ち、どんなことにも心を乱されないこと、とある。初め儒学の語であったが、のちに主として禅宗の語として使われ、その後、広く使われるようになった、とも。
 「初め儒学の語」という言葉に眼が止まった。飯島耕一さんの『アメリカ』『白紵歌』、また『江戸文学』32号に掲載された「江戸と西洋」を読んだからだ。以後、その関連で「天」の文字をしばしば思い浮かべるようになった。儒教の「儒」が「柔弱の意」でもあると教えてもらった。『白紵歌』のオビには「イズムの時代は終わった。あとは天に聞け。」の言葉も見える。先月、読売新聞に毎週水曜日掲載された「仕事私事」というコラムの最終回には「川と天だ。」の言葉が泰山のごとくデンとそこにあり、のびのびと、こころが晴れ晴れしていく気がしたものだ。
 今の時代には今の時代の神経症があるのだろう。駅のホームに立ち、轟音をたてて通り過ぎる新幹線を見れば何事かと思う。こんな固いスピードを目の当たりにしたら漱石や竜之介なら、なんと思うだろうか。歩くスピード、リヤカーを引き引き撮影行脚をしぶとく繰り返してきたカメラマン橋本照嵩のスピードを思う。
 命のことは、風呂で体を拭くぐらいならできても、ほかは自分ではどうすることもできない。人は大きなものに触れて初めて柔らかに息深く安心するのだろう。大きなものが見えなくなれば、また見ようとしなくなれば、どうしたってこころは揺らぐ。