適正在庫

 小社、今月が決算月で、おかげさまで六周年を迎える。創業時からかぞえ、刊行点数が160ほどになっている。アイテム数が増えることは喜ばしいことだが、売れて初めてなんぼということもある。
 柱的刊行物の『新井奥邃著作集』は各巻500冊つくっているが、六年間で各220〜250冊売れた。約半分。まぁ、よくぞここまで売れ部数が伸びたものと内心喜んでいる。しかし、売れないものを長く多く持っていると、資産とみなされ税金の大笑、もとい、対象となるから、目算を誤って作りすぎたもの、返品が予想以上に多いものなど、断腸の思いで断裁せざるを得ない。返品について言えば、作った数より多いじゃないかと錯覚することもあるぐらいだ。
 税金のことを考えれば、本も、作ったらとっとと売って金にしなければならないということだろう。「とっとと」というのはどれぐらいかといえば一年。一年に一回決算がある。だから、本当は長く読み継がれる本など作ってはいけないのだ。百年経っても残る本などと自慢げに、いい気になるのはもってのほか。
 『著作集』について監修の工藤先生が「経営を度外視して…」と志を高く評価してくださるのはありがたいが、そのたびに「度外視しているわけではありません」と反論してきた。単体ではとても採算ベースには乗らないけれど、『著作集』を出している出版社だということでいただいた仕事が十や十五で収まらない。それで良しとしてきた。が、総体として売上が期待したほど伸びず、在庫が増え続ける現状を鑑みれば、そうとばかりも言っていられない。適正在庫ということを真剣に考えざるを得ない。このごろそれが身に染みている。
 問題解決の究極は、売れる数だけ、すなわち注文のある本だけ作る「オン・デマンド印刷」ということになろうが、現状はまだそうなっていない。本作りの仕込み=編集が機械化できないところにその原因があるのだろう。10冊しか売れない本を数ヶ月、はたまた一年かけて作るとなったら、本は読むものというよりも刀剣か書画骨董に近くなり、やがて「なんでも鑑定団」に登場する日が来ないとも限らない。10冊しか売れない、でも10冊は確実に売れる本作り! ふぅ〜。そんな出版商売ってありなのか?

何度でも

 言葉でも状況でも、日によって月によって年によって重なることがあっておもしろい。悪いことは重なる、泣き面に蜂、などという言葉もあるが、重なるのは何も悪いことばかりではない。
 昨日、岡山の衣笠先生から電話があり、なつかしい元気な声を聞かせてもらった。いろいろうかがった中で、ありがたいと思ったのは、ウチでつくった先生の『衣笠澤子の世界 押花・野の花の饗宴』につき、読んでくださった方が何度でも見返したくなる、との感想を持たれるということ。出版社としてこんな嬉しいことはない。また、この度の鈴木みどりさんの『ユウ君とレイちゃん』も、先生ご自身同様の感想を持たれると。先生は、カメラマン橋本照嵩の撮影現場に立ち会って以来の彼のファンで、写真集『北上川』の完成を心待ちにしておられる。『北上川』も間違いなく再読三読に耐えられる、どころか、ページを繰る回数に応じて深く滋味が感じられる写真集になる。
 埼玉の男性から電話があり、若頭ナイトウに「わしゃあ老人だけんども、『大河ドラマ「義経」が出来るまで』ちゅう本をおもしろく読んでおる。おもしろいんで二回読んだんだが、老人じゃからわからないところがあるけん、教えてもらいたいのじゃ。ディオニュソス的とは何のことじゃ」と言ったそうだ。男性、みずから「老人じゃから」と名乗り、あっはっはと笑ったというが、二回読んだというそのことが嬉しかった。
 何につけ、お客さまから教わることは多いが、再読三読に耐えられる本、つまり情報に還元できない、傍に置いて長く味読できる本を作りたい。奥邃は自分の書いた文章について「再読無益なり」と言ったけれども、それはまた別の話。

メール

 思わぬ方からメールをいただき、今日さっそく会うことに。
 桜木町に社を移してから、朝の出勤時、H君(もう、いい歳だろうから「君」はないが、一緒に働いていた当時そう呼んでいたので)と似た人を数度見た。H君じゃないかなぁ。似ているなぁ。背格好も同じぐらいだし。住所が確か横浜で、あの頃は一緒に帰って来たこともあった。H君なんだろう…。
 そんな印象で見ていたのだが、H君と似た人は、朝、とても急いでいるふうで(一度は小走りだった)声を掛けづらかった。声を掛けたら「あ。三浦さん。お久しぶりです」とかなんとか言って、急いでいるのに立ち止まり、ふたことみこと言葉を交わすのは必至。朝の時間は貴重。だから、なんだか気が引けた。それに、なんと言ってもH君は急いでいたから。
 そのH君からメールが来た。ネットサーフィンしているうちに、わたしの名を見つけ、もしやと思ってクリックしたら春風社のホームページが出てきて驚いたという。すぐに返事をし、H君に似た人を見かけた話をメールすると、「水臭いじゃないですか」となり、今日の約束とあいなった。ひげ剃って行こ。
 わたしと一緒に働いていた会社をH君が辞めたのは十三年前(とすると、わたしそのとき三十五。わけーっ!)だという。思い出を懐かしむように、昼食後の喫茶店やら回転寿司屋の話をメールに書いていた。H君の住まいは小社の「目と鼻の先」。今度はこっちが驚く番。
 偶然だがもう一通、初めての人(メールを頂戴するのが)からメールをいただく。中学・高校の後輩のE君で、現在は福島県郡山市に単身赴任、先日故郷に帰省した折、わたしの弟から春風社の存在を聞くに及び、連絡してくれたらしい。E君の息子が中学二年生で、「弟さんにお世話になっている」とのお礼の言葉もあった。
 こんなふうに気軽に縁が再開できるのは、メールのいいところだ。

au

 アウじゃなく。au。携帯電話。
 久しぶりにキャノンの往年の名編集機(数年前に製造中止)EZPSに向かって仕事をしていたら、隣りのパソコンに向かっている愛ちゃんのマウスパッドの横に、美しいクリムゾンレッドのケータイが置かれていた。おいらのDoCoMoのが「携帯電話」なら、愛ちゃんのはまさに“ケータイ”。全然次元を異にしている。つい見とれてしまい「愛ちゃん。これちょっと見せて」「どうぞ」
 閉じた状態からサッと開くと、画面が…、ああいうふうな出方を言葉でどう表現するのかわからないが、コンマ何秒か遅れて絵柄が画面にスッと滑り込んで来る。そのコンマ何秒の間(マ)と静か過ぎる登場のし方が、えもいわれぬ高級感を醸し出す。に対し、おいらのは開くとパキッていう。パキッて何だよパキッて。別に壊れているわけではないのにだ。最初からこんな音だった。愛ちゃんそれを見、ただ「アハハハハ…」で。ふむ。車で言ったら、愛ちゃんのがベンツかジャガーなら、おいらのはさしずめ昔の軽自動車。愛ちゃんに自嘲気味にそう告げたら、「そうですね」と、にべもない。「おいらもこれがいいな。これ欲しい!」って言ったら、横で発送の仕事をしていた石橋が、「あら、今は電話番号変えなくてもメーカーを変えられるはずよ」「え。ほんと?」
 愛ちゃんに、その辺のところを調べてもらったところ、DoCoMoから番号を変えずにauに切り替えられるようになるのは来年が目処だそうで、現在はまだそうなっていないとのこと。さらに、アンケート調査の結果、DoCoMo使用者の4割がauに切り替えたいと思っているのに対し、au使用者がDoCoMoに切り替えたいと思っているのは1割にも満たないとか。だろうな。納得。だってデザインのセンスが全然違うんだもの。ベンツかジャガーに対抗するに昔の軽自動車では話にならない。やっぱりいろいろ見比べてから物は買わなければならないということらしい。あ〜あ。

安心立命

 好きな『大辞林』によれば、「あんじんりゅうみょう」「あんじんりつめい」「あんしんりつめい」「あんじんりゅうめい」と言ったりするそうで、信仰によって心を安らかに保ち、どんなことにも心を乱されないこと、とある。初め儒学の語であったが、のちに主として禅宗の語として使われ、その後、広く使われるようになった、とも。
 「初め儒学の語」という言葉に眼が止まった。飯島耕一さんの『アメリカ』『白紵歌』、また『江戸文学』32号に掲載された「江戸と西洋」を読んだからだ。以後、その関連で「天」の文字をしばしば思い浮かべるようになった。儒教の「儒」が「柔弱の意」でもあると教えてもらった。『白紵歌』のオビには「イズムの時代は終わった。あとは天に聞け。」の言葉も見える。先月、読売新聞に毎週水曜日掲載された「仕事私事」というコラムの最終回には「川と天だ。」の言葉が泰山のごとくデンとそこにあり、のびのびと、こころが晴れ晴れしていく気がしたものだ。
 今の時代には今の時代の神経症があるのだろう。駅のホームに立ち、轟音をたてて通り過ぎる新幹線を見れば何事かと思う。こんな固いスピードを目の当たりにしたら漱石や竜之介なら、なんと思うだろうか。歩くスピード、リヤカーを引き引き撮影行脚をしぶとく繰り返してきたカメラマン橋本照嵩のスピードを思う。
 命のことは、風呂で体を拭くぐらいならできても、ほかは自分ではどうすることもできない。人は大きなものに触れて初めて柔らかに息深く安心するのだろう。大きなものが見えなくなれば、また見ようとしなくなれば、どうしたってこころは揺らぐ。

京の水

 夢で京都に行ってきた。京都は川と水、川がなければ死んだも同然…。枯れ野を走るタクシーの運転手がそう言った。
 高校の修学旅行以来だからちょうど三十年ぶり。いろいろ回ったなかで、金閣寺よりも銀閣寺よりも、清水寺がその後たびたび夢に現れ、細部にわたってしっかりと映像が目に焼き付いている。
 参道に並ぶ店店の賑わいも三十年前とちっとも変わらずそこにある。靄に煙る京の山々が千年のパノラマを見せてくれる。若い娘たちはタンクトップ姿で左手階段を登り縁結びの神様へと急ぎ、杖と笠を手に持つお遍路さんたちは喉を伸ばし長いひしゃくで不老長寿の水をゴクゴク飲んでいる。寸分たがわぬ景色にわたしは見とれていた。
 立木のなかを樹液が絶えず流れるように、体にも流露するものが流れているということか。
 石の道 雨呑み込んで 秋を待つ
 かんざしの 目元すずしや 初舞妓

風と水

 Dr. コパの風水かよ? そうではなくて。
 会社経営の要諦は、世の動き、風の流れを事前に察知し進むべき方向を違えることなく生産活動にいそしむことである、みたいなことをよく聞く。がしかし、風の流れを読むということは相当の匠(たくみ)か経験を積んだ知恵者でなければできぬ業。だから、「風を察知」といわれても、日経を読むぐらいが関の山で、自分の小さな会社にどんな風に応用するかとなると、途方に暮れてしまう。そんなことよりも水だ。
 風のイメージが天才を思わせるのに対して水は、もっとゆったりしており、でも確実にそこにあり、後から効いてくるイメージがわたしにはある。富士山に降る雨が土を湿らせ地下へもぐり、何十年も経た後に湧水となって三島の町を潤すような時間の恩恵を感じさせる。
 風でなく水のイメージはまた人と人のつながり、縁をも感じさせる。縁を大事にするということは、すぐに仕事に繋げようと考えることではないだろう。肩の力を抜き、まぁ、よく相手の話を聞くし自分の感じているところを素直に、しかし失礼のないように忌憚なく話すことではないかと思う。意匠はこのごろとても嫌でうっとうしい。頭で考えないわけではないけれど、ぴりぴりアンテナを張ることを極力廃したい。それよりも、流れ流れて足下の水を感じ、その水の流れに身をまかせて行くほうがなんだか楽しい。そんなことを考えていたら、本当に北上川や源平川、鴨川が仕事の射程に入ってきたから、こりゃつくづくおもしれぇなあと思うのだ。