祭のあと

 心待ちにしていたお盆休みも終り、今日からまた仕事。祭は祭らしく仕事は仕事らしく。でも、なんだか気が乗らないねぇ。
 夏休みが終ろうとしているのに、宿題が予定通りすすんでいない時にも似て、気分がなんとなく湿気ている。弛緩。ただ、この状態のいいところは、楽しかった祭のあれこれが心にきちんと刻み込まれるということ。
 こころがふわふわ、やわらかくなっているため、ふだん入りこまないニュアンスまでが、今はその意味がわからなくても、心に入りこむ。長いスパンでの大事な決断をするのは意外とこういう時ではないか。自分のことを振り返っても、人生の大きな曲がり角は祭のあとだったような気がする。普段の生活から祭へ向かう昂揚した気分と、あり得ないほどの絶頂から頭を冷やして淡々とした日常へ向かうはざま、破れ目のこの時に外から不意になにかがやって来る。神か仏かご先祖様のご託宣か、たとえばそういうもの。耳を澄まし心を平らかにして聴くしかない。しかない。ん? ん? しかし、今回ばかりは寄り目になるぐらい、いくら意識を集中させても、デタラメな夢が浮かぶばかりでチンとも音がしない。結局「なんだかんだごたくを並べてねえで、とっとと仕事をしろ!」ということのようだ。ふぁ〜い。それにしても眠い。忘れ物がないかよく注意しよ。それではみなさん、今日から(きのうからの人も)また頑張りましょう! 行ってきま〜す。ふぁ。

池波ファン

 秋田からの新幹線の車中、二、三度うとうとしかけたこともあったが、結局、東京駅まで飽きもせず『鬼平犯科帳』をずっと読んでいた。東京駅からは横須賀線に乗り換えたのだが、読むものがなくなり、もう一冊つぎのを持ってくれば良かったと悔やまれた。『鬼平〜』は文庫で二十四冊、今年一年は楽しめる。
 昨日読んだ章では、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵が、市中見廻りの途中、ある飲み屋にふらりと入ったそのあとから、年のいった夜鷹がまるめたむしろを抱え同じ店に入るというシーンがあった。
 平蔵は店の親父に、女にも酒を一杯つけてやれと頼む。親父は、このお侍さん(平蔵のこと)、こんな化け物を抱く気なのだろうかと心中思う。ほかには客がだれもいない。女は色っぽい目で平蔵を見遣る。平蔵は、そっちのほうは年のせいで、このところとんとダメだから、話に付き合ってくれという。女の目から商売の色が消え、小一時間ほど平蔵は女と話し込む。女が先に席を立ち店を出て行こうとするや、いつの間に包んでおいたのか、平蔵は紙に包んだいくばくかの金を女に渡した。女は、「こんなわたしを人並みに扱ってくれたほかにお金までもらっては…」と恐縮するが、平蔵は、こともなげに「俺もお前もここの親父も人ではないか」とあっさりと言う。ク〜ッ! ちくしょー。にくいねぇ〜、長谷川平蔵。やい、こら平ちゃん。カッコ良すぎ! 女は平蔵にもらったお金を宝物のように胸に押し抱き闇に消えていった。ク〜ッ!
 こういうシーンを格調高いリズミカルな文章でテンポ良くやられるのだからたまらない。みんな好きなはずだよ。『鬼平〜』はもちろん、しばらく池波ファンで行くことになりそうだ。

吉とでるか凶とでるか

 今年は例年になく稲が豊作のようで、いまのところ農家は大喜び。昨日は北秋田地区で大雨洪水警報がだされたぐらい大量の雨が降り、それから降る地域が広がったのか、ここ南秋田郡でも昨夜から途切れることなく慈雨が降っている。これで台風が来なければ、と父は言う。
 一年手塩に掛けてきた稲も、台風に直撃されればぺちゃんこになぎ倒され、一巻の終わり。農業が天候によって大きく左右されることは「ダッシュ村」の例を見てもわかる。これから二ヶ月、農家の人はだれでも、台風の発生と進路に戦々恐々となる。
 収穫を当て込み農協から借金してきた農家は、台風一過で元も子もなくしてしまう。娘を売りに出すことは今はさすがになかろうが、出稼ぎを余儀なくされ、遠くで働いているうちにさびしい思いに駆られて、なんのために出稼ぎに来たのかわからなくなってしまうことだって起こりうる。一家離散への不幸の連鎖の始まりが台風であったという、笑うに笑えぬ話もある。
 実るほどこうべを垂れる稲穂は、垂れれば垂れるほど台風に弱い。十分な実入りを望み、あと一日刈り入れを待ってみようと欲をかいたことが凶とでて、台風にやられることも間々ある。その見極めが難しい。経験上そのことが分かるわけではない、父や周りの農家を見ていてそう思う。

会話

 秋田に帰ってくると、床に就くのが早いせいか、目覚めも早い。数日しか居ないし、もったいない気がして、目が覚めたらすぐにサンダル履きで外へ出、朝の空気を吸う。もやがかかった山々や田んぼの緑を眺めていると、こっちまで潤ってくるような気がして清々しい。
 庭を歩きながら植木の成長ぶりを見るのも楽しい。めでたいことがあるごとに祖父は木を植えていたが、自分に関することは知っていても、全部は憶えていない。感傷的な気分に浸りながらさらにゆっくり歩く。蛙がどぼんと池に飛び込み石に這い上がり、あさっての方角を見ている。カラスたちが金兵衛さんの畑の栗の木に集まりぎゃーぎゃー鳴いている。よほど暇なのか、リズムを変えたり声色を使ったり。陰に隠れて見えないのもいるが、六、七羽はいるだろう。
 目の前に太い釣り糸のような白い糸が現れた。触ると弾力性があり、切れるものではない。糸の先を見ると、ヤドカリ大の蜘蛛がいた。でかい! でか過ぎ! こんなのにひっかかったらたまったものではない。さっきまでの感傷的な気分が一気に吹っ飛ぶ。
 いつから見ていたのか、縁側から母が、「その糸にトンボでもチョウチョでもなんでも引っ掛かるのよ」と声を掛けてきた。驚いて振り向いたが、わたしはそれには答えない。
 夜、酒を飲んでいたときだ。母から聞いていたのか、父が突然こんな話をし始めた。「おれは不思議なのだよ。あのでかい蜘蛛のことさ。屋根のひさしから柿の木までは優に八メートルはある。どうやって糸を張ったものか。いったん地面に下り、それから歩いていって木に登ったのだろうか」。「きっと風に乗って運んだのさ」。それから父はまたわたしのコップに酒を注いだので、蜘蛛の話題はそれっきりになってしまった。テレビでは巨人-阪神戦が3対3のまま延長戦へ。父もわたしも弟も右ひじを折り曲げ枕にし「川」の字で野球観戦。母は台所で洗い物。奥の部屋では子どもたちがゲームに夢中。こんな時間がほしくて田舎に帰ってくるのだと思った。

帰省のたびに

 「よもやま日記」は年中無休と宣言したがために厄介な問題が生じることもある。一番はなんといっても帰省の折。
 秋田の家にもパソコンはあるものの、わたし以外に使う人間がいないので、その都度、インターネット使用の契約をし、横浜へ帰るときに契約を解除する。それが結構めんどうくさいのだ。今回も朝5時に起きて、父がもらってきたCD-ROMの案内に従い操作したのに、うまくいかない。結局係りに問い合わせた。
 ていねいに説明してくれるのだが、パソコンと電話の置き場所が離れており、なおかつ、モデムを切り替えることによっていずれか一方しか使えないため、インターネットに接続しようとすれば電話ができず、電話を掛けようとするとインターネットが使えない。オペレーターが親切に「こちらから携帯電話におかけしましょうか」と哀れみをもって言ってくれても、深山幽谷のこととてつながらず、いわゆる圏外。あれやこれや悪戦苦闘、2時間かけてやっとインターネットがつながる。もうへとへと。ふるさとでゆっくり休もうと思って帰ってくるのに、ふだん使わぬ頭を思いっきり使い、精も根もつきはてる。汗だくだく。もういや!!

夢うつつ

 今朝方、目が覚めたのは二時ごろだったろうか。かたかたかたかた。はじめは地震かと思った。このあいだも、ぐらりとくる三秒前に目が覚めて、「来るな」と思ったらすぐに来た。カラスやナマズでなくても、異変を事前に感知する機能が人間の体にも備わっているのかもしれない。予知能力といっても、たかだか三秒では話にならないが。
 耳を澄ますと、かたかたかたと鳴っているのは、外のものではなくわたしの奥歯だった。うっすらと開いた口の奥のほうで歯がぶつかる音がする。エアコンを「快眠」にセットしているのはいつものことだから、寒さのせいではない。実際、意識して奥歯を噛むとかたかたの音は止む。ほかに体の異変は感じられない。国道1号線を戸塚に向かう車か、折れて鎌倉方面へ向かう車かわからないが、遠くでエンジン音が聞こえる。夢ではなさそうだ。
 かたかたかたかたかたかた。奥歯の力を抜くとまた他人事のように鳴り出す。噛むと止む。五遍ほどそれを繰り返した。すると、かたかたかたかたかたかたと音をさせているのは、わたしではない気がしてきた。鳴っているのは確かにわたしの奥歯なのだが、鳴らしているのはわたしではない。
 わたしを呼ぶ声がする。かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかた………………………………………………………
 ハッと目が覚めた。じっとり汗をかいている。白檀のお香の匂いが微かにしたから今度は本当のようだ。かた、と音がして横を見た。動悸が激しくなり耳に聞こえるほどだったが、遠くに聞こえるのはさっきと同じ車の音だけで、ほかには何も聞こえなかった。

新しい耳で聴く

 寺島さんの新コラム「たのしいジャズ入門」がいよいよ始まった。寺島さんは吉祥寺にあるジャズ喫茶「メグ」のオーナーで、ジャズ評論家としても名を成している。“売れっ子”なのだ。うちがなぜジャズ評論界の“売れっ子”と知り合いかといえば、稀代の名編集者、師匠・安原顯のおかげなのである。
 二人は、安原さんが編集したジャズの本に寺島さんが執筆したことがきっかけで仲良くなったそうだが、ジャズがもともと好きだった安原さんは、晩年、寺島さんの影響でオーディオに凝り出した。寺島さんは「オーディオはカネだ!」と喝破された人でもある。
 その寺島さんがジャズの名盤を独特の寺島節で紹介してくださるというのだから、おもしろくないわけがない。視点がハッキリしている。五十年前、十年前の耳でなく現在の耳、新しい耳で聴く、という視点。寺島さんのジャズ評論はそれに徹している。それと、自分が聴いてどう感じるか、自分はどう聴いたか、ということ。素直な耳、しなやかな感性、自分を信じるということがなければできない所作だ。ファンが多い所以である。
 さて今回紹介されている五枚だが、わたしもジャズ好きと自負しているが、聴いたことのあるものが一枚もない。一枚も…。これはどうしたことか。考えてみればあたりまえで、仕事柄から言っても寺島さんがジャズを聴く時間はわたしなどの比ではない。耳が肥えている。肥えた耳は古今東西のジャズをどう聴くのか。紹介されているCDからこれはと思うものを自分の耳で聴いてみるのも一興、これから次々に紹介されるCDに自分の好きなものが入っていたら、感じ方が同じか違うか確かめてみるのも楽しい。ジャズが好きな方、これからジャズを聴こうとしている方、どうぞ楽しんでいってください。