よく見る

 演出家の竹内敏晴さんと電話で話す。大阪の、あるグループでやった座談会の録音テープの感想を求められ、そのことについて話したのだが、話しながら、竹内さんのことばについての認識のひとつに「ことばというのは相手の側で成り立たなければ意味がない」があることを不意に思い出した。
 いくら一生懸命しゃべっても、自分が自分がと、相手を盾にして目が自分に向いているかぎり、ことばが相手に触れたり相手を突き動かすことはない。その意味で、ことばはやはりアクションなのだろう。問題は、相手をよく見、そこでなにが動いているかを知ることだ。その動きを感じわけ、同調したり、反発したりしながら、流れを加速させ、またゆるめ、別の方向へもっていったりと、ジャズの即興演奏に近いコミュニケーションが生まれてくる。よく見るためには、アメーバのように瞬時にかたちを変えるからだの柔らかさ、自在さが必要。そんな言い方でいいかどうか。
 わたしにはまだよく分からないけれど、ことばがそういうふうに成り立つとすれば素敵なことだとは思う。できるなら、そうなりたい…。話すことで自分が楽しい、気持ちいい、ふつふつとよろこびが湧いてくることももちろん大事、でも、向き合うひとにおいてことばが成り立つことは、それと次元を異にしているように思うのだ。対岸の火をこちらで見ているのと、しゃにむに川に入り泳ぎ出すことの違いといったらいいだろうか。ことばを話し、それが相手に届き、そこで成り立つとき、自分を見ている余裕など無いに違いない。
 向き合う相手とそういう関係になることは、とても魅力的だけれど、そんなふうにはなりたくない気持ちもある。ことばに隠れる安穏を願うこころがある。