保土ヶ谷駅

 恩師のT氏を迎えに夜、保土ヶ谷駅に行った。休日の9時を過ぎていたから、ひともちらほらとしかいない。わたしは改札の正面に立ち、階段のほうを睨むようにしていた。
 うしろでなにやら声がしたので振り向くと、初老の男と女がいけない抱擁をしていた。そんなにまでしなくても、と思った。ふたりとも相当酔っているようなのだ。別れのことばを言っては抱き合い言っては抱き合いしていた。ふたりを勝手にさせといて、わたしはまた体をもどし、階段のほうを睨んだ。T氏はまだ現れない。
 いけない男が改札を抜け、わたしの視界に入ってきた。後ろを振り向き振り向き、手を上げたり、頭と両腕をだらりと下げたりしながら、蟹股の脚を階段に向けて歩き、視界から消えた。振り向くと、見送った女は手のひらで二、三度、顔を洗うようにこすると、回れ右をして階段を下りていった。途中、体をぐらりと揺らし、手摺りにつかまって、ダ、ダ、ダダダダ、ダダ、ダ…、と、不規則なリズムで歩をすすめ、やがて閉店したスーパーのほうへ姿を消した。体を戻し、またわたしは階段のほうを睨む。その時だ。目の前に大きな蟻地獄が出現し、さっきの男と女がずりずりと引きずられていく姿を見た気がした。
 下で電車の到着する音がする。蟻かと思いきや、ぞろぞろと現れたのは人間で、変な妄想を振り払うべく、わたしはテレビドラマのように頭を振った。と、サッと手を上げる人がいて、見ればT氏だった。
 改札を抜けたT氏が帽子を脱いでわたしにお辞儀をした。「お疲れさま」と言ったわたしの顔が、蟻になってやしまいかと一瞬心配になり、顔が火照った。T氏は何もおっしゃらなかったから、蟻の顔ではなかったのだろう。歩道橋を渡り、国道1号線沿いのタクシー乗り場でタクシーを拾い、山の上へ向かった。