性格

 武家屋敷ノブコと昼食を食べに行ったときのこと。二人がけの小さなテーブルに男と女が向き合い、15センチほどの距離を置き、その奥の四人がけのテーブルがひとつだけ空いていた。ほかのテーブルはぜんぶ客で埋まっている。わたしと武家屋敷はこれ幸いに、手前の男女にことばをかけ、うしろを通させてもらい壁に接した奥のテーブルに着き、メニューを見てそれぞれ好きなものを注文した。
 しばらくして、夫婦であろうか老齢の男女が店に入ってきた。男のほうが「座るとこないね、座るとこないね」と言った。七十代後半から八十がらみだろう。わたしはその男のほうを見た。男は狭い店内を何度も見まわし、「ダメだね。座るとこないね」と言った。「出よう」と妻に言い、それでもあきらめきれない様子だった。口の周りに泡が乾いてはりついている。
 待つでもない帰るでもないふたりの老人を見、店の主人が奥から「すみませーん!」と声をかけた。と、横にいた中年男性が、わたしと武家屋敷が座っているテーブルを差し、「座って待っていればいいじゃないですか。すぐですよ」と声をかけた。「どうする?」「待ってましょうか」老夫婦は身をちぢめ、それでも狭くて体を通すことがかなわず、声をかけた男性とその向かいの女性が箸を置き立ちあがり、やっとテーブルの間を通りぬけてわたしたちのテーブルに着いた。わたしは半身になり、壁に体を押し付けた。
 やがて、老夫婦に声をかけたくだんの中年男性と連れの女性は食事を終え、帰っていった。老夫婦は「注文取りにこないね」「ええ」とことばを交わしたあと、男のほうが体をねじり厨房に向かい「おーい」と声をかけた。女将さんが「すみませーん。少々おまちくださーい!」と答えた。わたしの隣りに座っていた老婦が「こちらの席へ移りましょう」と言って、中年の男女がいた席へ体をずらした。すると、年老いた夫が、「馬鹿。テーブルの片付けが終っていないところに座って、おまえが食べたと思われたらどうする」と真顔で言った。わたしはもう一度その男の顔を見た。口の周りの白い泡は忘れられたなぎさを彷彿とさせ、しょっぱそうでどうにもやりきれない。ようやく注文を取りにきた女将さんに向かい「卵どんぶりをふたつ」と男は言い、片付いたテーブルを見遣り、サッと体を移動させた。

湖愁

 松島アキラのヒットソング。シングルレコードが昭和36年発売だそうだから、わたしはすでに生まれていて、父や叔父を真似て三橋美智也のものなどを歌っていた頃だ。
 「湖愁」がそんなにヒットしたのなら、当時わたしの耳にも入っていてよさそうなものだが、トンと記憶にない。昭和36年といえば、家にまだテレビが入っておらず、ひょっとして父や叔父の好みに合わず口ずさむことがなく、それで、知らずにきてしまったのかもしれない。いい歌だなあと思ったのは、コットンクラブに来るKさんやIさんが歌っていたからだ。
 ゆっくりと物静かに始まる曲は「かわいあの娘よ さようなら」で切なさの極をむかえる。失恋の歌だ。歌謡曲っていいなあと思う。あたりまえだが、KさんとIさんではそれぞれ歌い方が異なる。それぞれ味がある。声も、Kさんのそれは歌手で言ったら守屋浩にちかく、Iさんのそれは橋幸夫にちかい。Kさんが歌えばKさんの「湖愁」だしIさんが歌えばIさんの「湖愁」だ。同じ歌でもおのずとニュアンスが違う。それを聴き分けるのもたのしい。おふたりとも十代の頃だろうから、思い出と重ね合わせて歌っておられるのかもしれない。
 自分がくぐってきた時間なのに、ちょっとした掛け違いで今まで知らなかった。こういうことがたくさんあるのだろう。