母子物語の原型

 大河ドラマ『義経』第3回「源氏の御曹司」を観た。
 鞍馬寺の門前での母子の別れの場面、一人でテレビを見ていたこともあり、もう、なりふり構わず滂沱の涙を流したよ。嗚咽までして。(←馬鹿だ)常盤役の稲森いずみの涙は値千金! いいね、いいねえ。ぐっと堪えても、子を思う母の気持ちが…涙が滲んでくるわけだねえ。
 遮那王と呼ばれることになる牛若も、母を恋うて日ごと夜ごと寺を抜け出す。ここに日本人が好む(日本人だけではないかも知れない)ドラマのアキレス腱を見た気がした。
 横浜のとある劇場では毎年年末恒例で、長谷川伸原作の『瞼の母』の公演があるらしく、何度か観にいった人の話によれば、例の「親にはぐれた小僧っ子がグレたを叱るは少し無理」のところになると、大の男たちがおいおい泣くそうだ。
 演出家・竹内敏晴が、稀有の教育者・林竹二に誘われ神戸の湊川高校に演劇を持って入るとき、何を持っていけば困難な環境で学校に通う生徒たちの心に響くかというので、近代以降の欧米の戯曲を渉猟した後、どうもどれもあかんということになり、いろいろ考えあぐね、長谷川伸の『瞼の母』と菊池寛の『父帰る』を提示したところ、林は言下に『瞼の母』を推したという。
 『義経』第3回を観て、常盤と牛若の関係に、『瞼の母』や二葉百合子の『岸壁の母』とも相通ずる母子物語の原型があると思った。

基本

 仕事が仕事なもので、どうしても文章のことが多くなってしまうが、主語と述語の呼応というのは、日本語に限らず、どの言語でも基本中の基本だろう。ところが、かなり文章を書いている人でも、時にそれが乱れることがあるらしい。「わたしは」で始まった文章が、何が何して、こうこうこういうわけで、それがこんなことにもなり、あっちにつながり、こっちに寄り道しているうちに、結論として、「基本ではなかろうか」で結ばれる。
 は?
 中ほどを全部取っ払って、文の構造を確かめると、「わたしは…」「…基本ではなかろうか」ということになり、バカヤロー!と叫ぶことになってしまう。「そうだよ、基本を弁えぬのはお前さんだよ!! ったく!」勢いとテンションの高さと集中力で書いて欲しいと思うのだが、頭でこねくり回し言わずもがなのことをもっともらしく言おうとする魂胆が、間違いの元。
 翻訳物で、何度読んでも意味がとれぬような文章は、だいたい訳文が間違っていると思って構わぬ、ということもある。時々、何言ってんだこいつ、と、アタマにくる。何度も言うが、本当にわかったことはシンプルだ。

有難し!

 ホームページ上で『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の予約注文を開始したところ、予想をはるかに超えた数が集まり、あらためて大河ドラマ、主役の滝沢秀明さん、演出家・黛りんたろうさんのファン層の厚みに驚いている。
 タッキーのファンサイトでは、hirokoさんという方が、本のことを紹介してくださり、同時に、予約注文のことまで告知してくださっている。
 また、前にもここで少し触れたことのある、黛さんを紹介してくださったpatraさんだが、予約注文の案内をしてくださったほかに、うれしくもあり恥ずかしくもあるが、「贔屓の理由」という題でわたしの印象記を記してくださっている。おつかいを頼まれた子どもが、もしも落としてしまったら生きている意味などないのだぞの覚悟できつく十円玉を握り締めるようにしてお持ちした花束の根元が、湯気が出るぐらいに熱くなっていたとは。
 「ぎこちなくとも誠意と熱意」を持って仕事に当たりたい。わたしとしては、この本の前説が黛さんの誠意と熱意を如実に伝えてくれる文章であると思う。淡々と書き起こしているけれども、今のNHKに対する風当たりの強さを思うとき、ひとを感動させるいいドラマを作りたいの一心で困難な仕事に向かっているこころが直に伝わり、何度読んでも目頭が熱くなる。立ち読みできるようになっていますから、ぜひお読みください。
 NHKに何度か足を運んだ際に、局内で黛さんに声をかける同僚の声の良さに聞き惚れた。この人たちは同志なのだと思った。本づくりに関しNHK側の窓口になっているNHKエンタープライズのIさんは、かつてドラマ部で黛さんと一緒に仕事をした仲とのこと、テレビ関係の事情に疎い我々にいろいろと配慮してくださった。
 今回いっしょに編集を担当した長田が子どもの頃から「大河」のファンだったことも奇縁といえるだろう。昨日、飲んで別れ際、「本が売れてくれることはもちろんうれしいけれど、そのことが、大河ドラマをより面白く観ることにつながってくれればいいなと思います」といった彼の言葉を耳にし、身内ながらあっぱれと思った。
 ご自身のホームページから最初にトラックバックを送ってくださったhoya-loverさんも、本の予約注文について有難い紹介をしてくださっている。また、毎回の「義経」の感想は、なるほどなあ、そういう観方もあるのかと唸らされる。

ラブレター

 なつかしい響きだなねえ。でも、恋のではなく仕事の。
 あのひとにこんな文章を書いて欲しい、あのひとのこんな本を作りたいと思っても、すぐには手紙を書かない。恋のこころが熟成し発酵するまでひたすら待つ。芳香を放つまでになったら、タイミングを逃がさず一気呵成に書く。しかして、恋が成就することもあれば、失恋に終わることも間々ある。いずれにしても、強がりでなく気持ちがいい。やることをやったという感じがするからだ。その時ダメでも、縁があって、またつながったりするところも恋に似ている。

など

 原稿を校正していてアタマにくることの一つに「など」がある。
 つかこうへいの傑作戯曲『熱海殺人事件』のなかに、二階堂伝兵衛部長刑事の「弁護士に頼るような犯罪者は嫌いだあ!!」という有名なセリフがあるが、その伝でいえば、「など」に頼るような物書きは嫌いだあああ!!!となる。
 「など」というのは、重要と思われるほうから順に(逆の場合もあろう)いくつか単語を並べた後で、もっと他にもあるけれど、全部書くのは紙幅の関係もあり以下省略、の意味合いで使われる場合と、考えられる限りは列挙したけれども、それ以外にもありそうで何だか不安、見る人が見て、そっちを挙げて、どうしてこっちを挙げてないのさ、おかしいじゃねえかと突っ込まれるのが嫌さに「など」と書き、批判を免れようとする。わたしは他にもあることをちゃんと知っているのだよ、でも、敢えてそれをしないのだから、どうか皆様そこんところをぜひご承知おきくださいの心性と甘えが見え隠れし、わたしは嫌いだ。
 だから、1ページに「など」が三度も頻出しようものなら、しかも「などなど」と重ねてあったりすると、わたしはキレる。すなわち、
 なにがなどなどだあっ! ドナドナの歌じゃねんだぞ、くらああああっ!!!
と、ダジャレの一発もかましたくなる。社員、また始まったかと下を向きクスクス笑っている。
 いますぐに思い出せないが、「など」についてのそういう属性を知悉し、逆手にとって、笑いにもっていった例を見たことがある。なるほどなあと思った。

話、聞いてんのか

 『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の予約注文が続々入っており、わたしもチラシを持って近くの書店に行った。以前そこの店主から「シャチョーんとこの本は難しいからなあ。うちにゃあ向かねえですよ」と言われたことのある本屋だが、義経なら大丈夫だろうと高をくくり、ま、10冊ぐらいは注文くれるかと胸算用しながらドアを開けた。
 「おはようございます。店長、うち今度こういう本出すんだけどさ。どう? 義経本がいろいろ出てるけど、この本はちょいと違う。いいですか。今回の大河ドラマ『義経』のディレクターみずから書き下ろした怒濤の演出日誌なわけよ。映画ならさしずめディレクターズカット版てとこだな」
 と、馬鹿店長(言っちまったよ)何を思ったか、「シャチョー、これ、小説?」
 「……」
 「シャチョー、これ、小説?」
 「演出日誌…(演出日誌って言ってんだろうがよっ!:心の声)」
 「あ、そですか。返上つき?」
 「返上つき」
 「返上つき。返上つき、と。返上つきね。なら、5冊ほどもらっときますか」
 この馬鹿、最初から売る気がない! 仕事が忙しかろうと慮り、ひとが滑舌よく、はっきり、くっきり、丁寧かつ簡潔に「ディレクターみずから書き下ろした怒濤の演出日誌」だって言ってんのに、「シャチョー、これ、小説?」ってなに。キレそうだったよ、もう。我慢したけどさ、大人だから。どうせ、こいつのボキャブラリーには「ディレクター」も「演出」も「日誌」も、まして「怒濤」などという画数の多い単語は、はなっから無いに違いない。こいつには、「大河ドラマ、あのね、あんた、大河ドラマ知ってる? ほら、えぬえっちけえでさ、キレイな着物着て、昔の話やってるでしょ。あんたなんか観たってどうせ解らないと思うけど。あの大河ドラマをつくったひとがドラマの裏話を書いたの。どうやって役者を決めたとか、音楽はどうするとか、ロケの苦労話とかを。ロケって解る? ロケットじゃねえよ」とでも言ってやるべきだったのだ。
 売る気のない馬鹿店長に5冊と言われ、「いや、もう結構」と断ろうかとよっぽど思った。が、店長は馬鹿でも目利きの一人や二人はいるかも知れず、「ありがとう」とだけ告げ、番線印をもらって店を出た。

手が出ない!

 仕事柄でなくても、勝手に好感度ランクなるものを持っていて、このごろ眞鍋かをりさんはいいなあと思うのだ。
 いまアルバイトで横浜国大の4年生が来ているので、おじさんぽいと思われることを極力心配しながら、それでもなおかつ、君、眞鍋かをりさんを知っとるか、みたいなことを訊くと、以前学内で見たことがあります、なんて彼女こたえる。あっ、そ。それだけ。会話終了。
 おっと。ここで断っておかなければならないのは、わたしの場合、面識がなくても、好感度ランクが10位以内の場合、自動的に「さん」付けになっとります。眞鍋かをりさんには、今のところ会ったことがありません。藤原紀香さんにしても然り。
 そこで、さっそく眞鍋かをりさんのサイトを覗いてみていたら、そこに「風俗嬢の性の語り部屋」のところに手のマーク(あはははは… 書いてて自分でウケてしまった。リンク先のところにポインターが動くと手のマークが出るじゃないですか。ある時ウチの専務イシバシがパソコンを眺めていて、手が出ない手が出ないって五月蝿く言うもんだから、何事かと思いきや、要するにリンクが貼られていないことをそう称しているのだった。あはははは… 手も出ない!)が出たので、クリックしてみた。やばいサイトだったらすぐに閉じようと思ったのであるが、いたって静かなり! どころか、これが非常に面白い。笑える。ためになる。三拍子そろっている。プロフィールを見ると、学校と仕事の両方を健気にこなしているとか。
 つい、あちらこちら読んでしまい(特にカテゴリ「お客さま」チェリ〜ネタ再び、には腹を抱えて笑っちまいました。文章も巧いなあー)、肝心の「よもやま」書く時間が減っちゃったので、「風俗嬢の性の語り部屋」にリンクを貼ってお茶を濁すことにします。どうです。ポインターを移動させると手のマークが出るでしょう。
 手が出ない、手が出ない、か。イシバシ、おもしれえなあ!