『悲しい本』

 変わったタイトルの絵本だ。
 日曜日、二十年前からたまに行く本屋さん(あの頃は息子がまだ小さく、クルマを道路の脇に停め、肩車をして本屋に通ったものだ。息子は、ほかの子と同じように肩車が好きだった)に入ったら、入口近くの「最近出た本」のコーナーに三冊、置かれてあった。
 谷川さんが訳しているから手に取ったのかもしれない。変わったタイトルの絵本だからかもしれない。ちょっぴり悲しい気分だったからかもしれない。三つ合わさって、だったかもしれない。
 1ページ目を開いたら、眼がぐりっとした、ひげもじゃの男がニカーッと笑っている絵が描いてある。どうしたのだろうと思ったら、下にこうある。
「これは悲しんでいる私だ。/この絵では、幸せそうに見えるかもしれない。/じつは、悲しいのだが、幸せなふりをしているのだ。/悲しく見えると、ひとに好かれないのではないかと思って/そうしているのだ。」
 そうか、そういうことか。
 絵本だからすぐ読める。でも、ここに描かれた悲しみはそう簡単には読めない。絵本を読んで気づかされるのはむしろ自分の悲しみ。カネやオンナに溺れるということがあるけれど、悲しみに溺れることもある。歳をとるにつれ、そのほうが多くなった気もする。深く大きな悲しみには太刀打ちできない、溺れるのが関の山だ。でも、たまには、絵本の中の男がするような仕方で、じっと、自分の悲しみをみつめるのはどうだろう。それしかないかなと思えてくる。今流行りの喫茶店でおしゃべりしている男たちだって、自分の悲しみまではしゃべっていないのだろう。しゃべる言葉をみつけるのはむずかしそうだし、そもそも名付けられない悲しみもあるはずだから。
 変わったタイトルの本だけど、いい絵本だと思った。