エレベーター

 小社から本を出すことになっているTさんがふらりと会社を訪れた。Tさんがわざわざ訪ねて来てくれたことが嬉しくて、また、Tさんはとても話が上手だから、わたしは調子に乗ってべらべらしゃべりまくり、あらぬ方向へ走っていくようだった。
 「そろそろ帰るわ」とTさんはサッと手を上げ、コートを羽織り部屋を出た。わたしは玄関まで見送るつもりで後を追いかけた。Tさんは足早に廊下をぐるりと回り、エレベーターの前まで行きボタンを押す。こんな所にエレベーターがあるなんて今日の今日まで知らなかった。
 やがて扉が開き、中へ乗りこむと、TさんはなぜかB2のボタンを押した。Tさんは相変わらず機関銃のように喋っている。喋りながら、ふと、エレベーターの窓から覗く瓦礫の山に目をやり「納豆とカレーの臭いがする」と、鼻の横に皺をつくった。戦後から何だとかとも呟いたようだったが、それが何を意味するのか、わたしには皆目検討がつかない。瓦礫の山を見て、このあたりの街の変化に思いをいたしているのかなと思った。
 それにしても、Tさんがさっき口にした納豆とカレーの臭いとはなんだろう。そんなこと思ったこともない。でも、なんだか、エレベーターの壁まで納豆とカレーで塗りこめられ、ほんの僅かながら、二つが混交した変な臭いが箱内の空気を歪めているような気がした。
 エレベーターを降りたTさんは、またサッと手を上げ、「じゃ、ここで」と言った。笑顔で、いつものTさんらしく格好良かったけれど、これ以上ついて来るなの厳しさを含んでいたから、その場でお辞儀するだけにした。なぜB2でエレベーターを降りたのか未だにわからない。
 Tさんを見送った後わたしは会社へ戻ろうとした。でも、納豆とカレーの臭いのするエレベーターは、なんだか嫌だなと思い、階段で3階まで行くことにする。ここは地下2階だから、合わせて5階分上らなければならない。少し時間が掛かりすぎているような気がして、一段飛ばしで階段を上り、それから走った。
 廊下を走りながら窓の外を見たら、風景が斜めに移動して行くから、このビル全体がエレベーターのようで怖くなる。
 走りに走っているうちに、ビルはどんどん変化して行く。「ここは……になるそうよ」と、買物帰りだろうか、中年の女性が連れ立って歩きながら、近くのエレベーターに乗りこんだ。わたしは、危険な気がしてそれには乗らずにまた走る。
 本を拾った。中にいろいろ書き込みがあり、巻末に図書館のカードが挟んであった。この建物内に図書館などあったろうか? わたしはだんだん焦ってくる。走ったことが功を奏し、なんとか地下から抜け出せたものの、このビルはどう見ても地上2階までしかない。建物の端はどこも朽ちて崩れている。
 Tさんを少し怨む気持ちがもたげてくる。納豆とカレーの臭いがする、なんて言ったからだ。それを口にしたことがそもそもの始まり。返さなければいけない本まで拾い、わたしは途方に暮れていた。
 でも、納豆とカレーでチーズだからいいのか、と、ちょっぴり思ったのも事実。