夢よ叫べ

 美味いものを食べて気の置けない人と酒を飲み、二日酔いにならぬ程度に酒を飲み、歌など歌って陽気にはしゃぐのが一番楽しい。
 昨夜もそのような夜でした。三橋美智也に始まりサザン・オールスターズに終わる。「ホテル・パシフィック」を思いっきり、声が裏返るぐらいに叫び歌うのが好き。久しぶりに会うミキコにアキコもノリノリで、ミキコは腰ふりふりで、なんだかとっても可愛いぐらい。
 朝起きて、遠藤賢司の「夢よ叫べ」を聴いた。聴いているうちに、頬の裏に虫でも居るのかモゴモゴし出し涙まで出てきた。そんな夜に負けるな友よ、か。負けそうになる時もあるよ。センチな気分になって3回聴いた。滂沱ダーと涙が流れ、酒も落ち、滝も落ち、スッキリとした。

お線香

 先日、多聞君とたがおも出演した口琴ライブを聴きに行ってきた。
 保土ヶ谷橋の交差点、改装したラヤ・サクラヤさんの、大きなかまくらのような部屋には、演奏者と客席のあいだに何本ものロウソクが灯り、幻想的な雰囲気がかもし出されていた。眼を閉じて聴いていると、これまでに訪れた土地の風景ばかりでなく、まだ見ぬ土地の山や木々までもが瞼に浮かんだ。
 演奏途中でこっそり眼を開けると、そうかここは横浜か、と現実に引き戻されたが、眼を閉じればまた夢に戻れるようで、閉じたり開けたりして遊んだ。
 さて、そのライブの報告を多聞君が書いているが、多聞君がアガリ症とは知らなかった。というか、彼はそういうこととは無縁の人かと思っていた。初めて会う人に取り囲まれ質問されても、淡々と自分の考えを的確に言葉にできるし、また、聞いていてなるほどと思える話をするから、凄いなあ、俺の若い頃と全然違うなあと思ってきた。でも、本人にしてみれば、そうではなかったということかも知れない。
 ぼくがこれまでの人生で一番アガッたのは、中学二年生の時。生徒全員から恐れられていた教頭先生(宿題を忘れて来たり、授業中ちょっとでもうるさくすると、生徒の耳を引っ張った)が病気で亡くなり、ぼくは生徒代表ということで葬儀に出席。祖父母がまだ元気な頃で、ぼくは、そんな大きな葬儀に出たことがなかったから、何をどうしたらいいのか、さっぱり見当がつかなかい。緊張しながらゆっくり弔辞を読んだまでは良かったが、それであまりに安堵したためか、はたまた、一挙手一投足が会葬者の目に晒され、自分の体が自分でなくなっていたせいなのかは定かならねど、とんでもない失態を犯してしまった。
 お線香に火を点け、フッと息を吹きかけ、消した。あ、これはこうするんじゃなくて、手のひらでササッと煽いで消すんだったな、ちょっぴり焦った。それがイケなかった。
 動揺したものだから、お線香の煙が出ているほうの先をグワッと灰に突っ込んだ。哀れお線香はただの長い爪楊枝と化し煙がプスと出ただけで、後は、うんともすんとも。前を見たら、遺影の中で恐い教頭先生は意外にも笑っていたが、よく見ると、目が笑っていない。もうぼくは教頭先生に耳を引っ張られたような気がして、ボッボと両耳を熱くした。
 アガる、どもる、緊張する、赤面する、などの話を聞くと、ぼくはいつもあの時のお線香を思い出す。

エレベーター

 小社から本を出すことになっているTさんがふらりと会社を訪れた。Tさんがわざわざ訪ねて来てくれたことが嬉しくて、また、Tさんはとても話が上手だから、わたしは調子に乗ってべらべらしゃべりまくり、あらぬ方向へ走っていくようだった。
 「そろそろ帰るわ」とTさんはサッと手を上げ、コートを羽織り部屋を出た。わたしは玄関まで見送るつもりで後を追いかけた。Tさんは足早に廊下をぐるりと回り、エレベーターの前まで行きボタンを押す。こんな所にエレベーターがあるなんて今日の今日まで知らなかった。
 やがて扉が開き、中へ乗りこむと、TさんはなぜかB2のボタンを押した。Tさんは相変わらず機関銃のように喋っている。喋りながら、ふと、エレベーターの窓から覗く瓦礫の山に目をやり「納豆とカレーの臭いがする」と、鼻の横に皺をつくった。戦後から何だとかとも呟いたようだったが、それが何を意味するのか、わたしには皆目検討がつかない。瓦礫の山を見て、このあたりの街の変化に思いをいたしているのかなと思った。
 それにしても、Tさんがさっき口にした納豆とカレーの臭いとはなんだろう。そんなこと思ったこともない。でも、なんだか、エレベーターの壁まで納豆とカレーで塗りこめられ、ほんの僅かながら、二つが混交した変な臭いが箱内の空気を歪めているような気がした。
 エレベーターを降りたTさんは、またサッと手を上げ、「じゃ、ここで」と言った。笑顔で、いつものTさんらしく格好良かったけれど、これ以上ついて来るなの厳しさを含んでいたから、その場でお辞儀するだけにした。なぜB2でエレベーターを降りたのか未だにわからない。
 Tさんを見送った後わたしは会社へ戻ろうとした。でも、納豆とカレーの臭いのするエレベーターは、なんだか嫌だなと思い、階段で3階まで行くことにする。ここは地下2階だから、合わせて5階分上らなければならない。少し時間が掛かりすぎているような気がして、一段飛ばしで階段を上り、それから走った。
 廊下を走りながら窓の外を見たら、風景が斜めに移動して行くから、このビル全体がエレベーターのようで怖くなる。
 走りに走っているうちに、ビルはどんどん変化して行く。「ここは……になるそうよ」と、買物帰りだろうか、中年の女性が連れ立って歩きながら、近くのエレベーターに乗りこんだ。わたしは、危険な気がしてそれには乗らずにまた走る。
 本を拾った。中にいろいろ書き込みがあり、巻末に図書館のカードが挟んであった。この建物内に図書館などあったろうか? わたしはだんだん焦ってくる。走ったことが功を奏し、なんとか地下から抜け出せたものの、このビルはどう見ても地上2階までしかない。建物の端はどこも朽ちて崩れている。
 Tさんを少し怨む気持ちがもたげてくる。納豆とカレーの臭いがする、なんて言ったからだ。それを口にしたことがそもそもの始まり。返さなければいけない本まで拾い、わたしは途方に暮れていた。
 でも、納豆とカレーでチーズだからいいのか、と、ちょっぴり思ったのも事実。