となりのマトリックス

 先日、保土ヶ谷駅構内にあるトイレに入った時のこと、便器に向かって用を足していたら、六、七歳の少年がぼくのとなりの便器に向かってズボンのチャック(今はジッパーか)を下ろした。
 酒も入っていたぼくは、ゆっくりのんびりやっていたのだが、少年、素早く用を足したかと思いきや、自分のモノをふりふり振って水を切り、それから思いっきり体を反らせ、マトリーックス! と叫んだ。少年の大胆な行動に思わず息を呑む。
 映画『マトリックス』をぼくは観ていない。が、エキゾチックで端正な顔立ちのキアヌ・リーブスが体を弓なりに反らせピストルの弾を除けるシーンは有名で、テレビで何度も放映された。まさしくあのシーン、アレにそっくり。少年が実際に『マトリックス』を観たかどうかはわからない。テレビで見ただけかもしれない。しかし、少年がマトリーックス!と叫び、のけ反らせた体の線は柔らかく美しく、映画の中のキアヌ・リーブスそのものだった。
 少年はさっさと手を洗い、ぼくのほうをチラと見て、駆け出した。他に誰もいなくなったので、ぼくは少年の真似をしてみた。便器に向かったまま体を反らせ、マトリーックス!
 て、て、て、いて、いて、腰に来た。体が硬くて、とてもあの少年のようにはできない。でも、なんだか嬉しくなった。
 小学生の頃、テレビアニメで『流星少年パピー』というのがあり、ぼくらの間で(たぶん全国的に)流行ったことがある。『宇宙少年ソラン』というアニメもあり、パピーとソランはあの頃の二大ヒーロー。危険にさらされた人間を救い出すため出動するとき、パピーは、ピーン、パピー! と叫んだ。ピーン、パピー!
 ぼくはやらなかったが、どう見ても運動神経のよくないA君が、何を思ったのか、あるときを境に、トイレで用を足した後、ピョンと飛び跳ね、ピーン、パピー! と叫んでからトイレを出ていくようになった。一度や二度ではない。スーパーヒーロー・パピーにあこがれたのかもしれない。勉強は出来てもスポーツがからきしダメなA君は、授業中、よく後ろの席のT君に耳を引っ張られ血を流していたっけ。血が固まりかさぶたになった頃を見計らい、悪ふざけなT君は、またまたA君の耳を引っ張った。そんなことがあってもA君は、あまりメゲることもなく、トイレの帰りには必ずピョンと一回飛び跳ねてから、ピーン、パピー! と叫んで廊下へ走り出して行くのだった。
 あれから四十年ちかく経つ。マトリックスの少年は、同じくトイレということもあり、あの頃のA君をまざまざと思い出させてくれた。