人生の悩み

 専務イシバシと仕事で出かけていて、用件を済ませ、さあ会社に戻ろうとした時、イシバシが、ちょっとお手洗いに行ってきますと言って、タタタと小走りに駆けて行った。
 手持ち無沙汰に、ぼーっとしていたら、やがてイシバシが戻ってきて、「あっちで、前の会社で一緒だったM君に遭ったわよ」と言った。へえ、不思議なこともあるもの、こんなところで偶然遭うなんて、あいつ全然連絡が無いからどうしているかと思っていたところだ。
 ちょっと行ってくるからここで待っていろ、とイシバシに言い残し、Mに遭ったという方角を目指しスーツ姿で走った。息を切らせながら、鞄が太腿に当たってイライラし、こんなことならイシバシに預けてくるのだったと後悔していた。
 Mがいた。「おうっ、M、久しぶり!」「あ、三浦さん、ちょっと待っていてください」そう言ってMはトイレに入っていった。
 しばらくしてMがトイレから出てきた。きっちり七三に分け撫で付けた髪型は昔と変わっていない。口元が鬼太郎の相棒のネズミ男に似ているのも昔のままだ。なのに、どこかわからぬが、決定的に、今目の前にいるMがかつて一緒に働いたことのあるMとは別人のように思えた。
 「どうよ、元気にしてる?」
 「はい」
 「しまった、やっちまった!」
 「なにをですか?」
 「今のおれの言葉、どうよ、元気にしてる? っていうのは中年の証拠だって、こないだ週刊誌に出ていてさ」ぼくは、その場の空気を和らげようとして、そんなことを口走った。
 「そうですか。三浦さん、ちょっとここで待っててもらえますか?」そう言って、Mはガラス戸の反対側に行き、ソファに腰掛けている二人の男に話しかけた。声は抑えていても、何か重大な案件で揉めているのはなんとなく察知できた。ネズミ男のように腰を曲げMが二人に謝っている。最後に、二人のうちの片方が「よろしく頼むよ」とサッと手を上げた。「どうせ出来ないだろうけどよ、まあ、せいぜい頑張ってみるさ」のニュアンスを含む、粘着質の言葉だった。
 「済みません、お待たせしました」Mは済まなそうに頭を下げた。
 「いんだけどさ。大丈夫なの? なんか揉めてたみたいだけど…」
 「ええ…。今度、時間とってもらえませんか。聞いてもらいたい話があって、あの、わたし、この仕事を辞めて、プ、プ、プロ野球の選手になろうと思っているのです!」
 「はあ?」
 Mの目は真剣そのものだった。
 「プロ野球の選手になりたいって、おまえ、もう40過ぎたろう」
 「42です」
 「42でプロ野球の選手はないんじゃないの」
 「ダメでしょうか」
 「ダメに決まっているよ」
 「でも、どうしてもなりたいんです。今度ゆっくり話します。あ、時間だ。済みません、社に戻らないといけませんので、ここで失礼します」Mは、タタタと駆けて行ってしまった。
 ん、こうしてはおれん。俺もイシバシを待たせたままだった。Mの変な話に付き合って、時間が過ぎるのをすっかり忘れていた。
 鞄を握り直し、もと来た方向へ走り出す。ところが、走っても走っても、さっきのあの場所に辿りつけない。焦って走っているうちに、どんどん周りの景色が変化し、とんでもない山奥に入り込んでしまった。
 道行く人びとも、サラリーマン姿からいつしか農作業でもするような格好になり、イシバシ怒ってんだろうなあと心の中で呟いた。でも、どうせ、もうこんなに時間が経ってしまったんだから、急ぐこたねえや。と、遠くに一列に並んで稲刈りをしている集団があり、うちの一人が、曲げていた腰を伸ばしてこちらを見た。相当の距離があって、米粒ほどの大きさにしか見えなかったが、まぎれもなくそれはMだった。
 プロ野球選手になりたいなんて言っていたのに、なんだよあいつ、ブツブツ言いながら、わたしは家路を急ぐ。どうやら雲行きがだんだん怪しくなってくる。